四十三庵

蔀の雑記帳

仕事ができる人ほど投資で損する理由

周りを見ての印象なんだけども、会社で仕事できる人ほど、投資で損しがちな気がする。
その理由を考えてみると、投資で必要とされる素質と、会社で求められる素質が真逆なことにあるのではないかと思った。

投資向きの性格とは

相場というのは、全員が買うとひたすら値段が上がっていく。
ではその波に乗って一緒に買って、みんなが売るときに一緒に売るとどうなるだろうか?
みんなが買っているのをあなたが見つけた時点で、相当の部分まで値段はあがっている。
そこで買うので、実は割高になっている。
そしてみんなが売るときというのは、どういうときだろうか、というと、けしてベストな売り時ではない。
商品の値段が下がってきて、みんな狼狽して売りに出して、値段が下がり、更に皆損失を少しでも減らそうとして急いで売る。

「人の行く裏道に道あり花の山」という相場格言があるように、
みんなが買って値段が上がっているときが売りのチャンスで、
みんなが売って値段が下がっているときが買いのチャンスなのだ。

つまり投資家向きの性格というのは、大衆と真逆のことができる人間ということになる。
みんなが右に行っているときに左、左へ行っているときに右に行けること。
優れた投資家は、性格がひねくれていたり、社会性がなかったりする場合が多いのはそういうわけなのだろう。
ニートが株投資はじめて個人投資家として大成するのも、理由がないわけではない。

周りがどう動いていようと、自分の相場観を信じて金を張れることが重要となる。

会社員向きの性格とは

反対に、会社員として評価が高い人というのは、みんなが右に行くことに理由付けをしようとする。
そして自分も右に行けばいいと考えがちだ。
人生でそういうヒューリスティックを使って生きて、これまで成功してきた経験があるはずだ。
それはもう習性になっていて、意識してもなかなか抜けない。
皆が買って、値段がぐんぐん上がっているのに乗り遅れている自分を客観的に見てしまう。
取り残されたような気持ちになる。
追いかけなきゃ、と思う。

旅行に行くと、とりあえず行列ができているスポットには並んでしまう。
行列は人気の証拠で、人気は実力の証拠だというのが、今までの人生だったから。

そういう行動をしていれば、会社が潰れるとか、国全体が滅ぶとか、
組織全体がダメにならない限りは、組織の中で活躍ができる。
けれど投資では勝てない。

もちろん会社でも評価されるし、投資も勝ってる人もいるが、そういう人は切り替えが上手いんだろう。
(了)

何のために金を稼ぐのか

二年前くらい、何のために金を稼いでいるのかよくわからなくなった時期があった。
僕は入社した会社に、どちからといえば暗い未来を描いていた。
毎日残業で終電まで残り、残業代は一部しか出ず、仕事も全然わからず無能扱いされ、どんどん疲弊していく。そんな未来。
入社して二年ぐらい必死で働いて、不満はあったが、そんなにひどい会社ではないということがわかった。

学生時代、値段がネックになってできなかったようなことはあらかたやった。
好きなだけ酒を飲むとか、美味いもの食べるとか、旅行とか。
気づくと平日は仕事に追われて、月から金がいつの間にか終わっていた。
そのペースはどんどん加速していった。
土日の休みは、結局休むだけで終わってしまい、一ヶ月はあっという間に終わり、それが十二回繰り返されると一年が終わる。
もちろん嬉しいことがあったり、悲しいことがあったりはする。
けれどそれも早回しでテレビ番組を見ているような、きちんと消化できていない感覚があった。

とりあえず金を稼ぐ手段は確立したな、と思った。
十年先もこの仕事をやっているか、あるいはできているかはわからないけれど、なんとかやっていけるんだと思った。
仕事というのは社会人以降の人生の、もしかしたら一番重要かもしれない要素なので、それがとにもかくにも安定したことはよかった。

そうなったとき、ふと「俺って何のために金稼いでるんだっけ?」と思うに至った。
(バブル期の社会人っぽい悩みだな、とは自分でも思う。
 ただその辺の悩みは、失われた20年が来てうやむやになったが、解決してないんじゃないかという気がする)

(目次)

どうして就職したのか

熱心な当ブログの読者なら知っていると思うけども、就職活動はそれなりに苦労をしている。
そこまでして就職したかったかと言われると、そんなに強い気持ちはなかった。
ただ実家を出たいという気持ちはあった。
実家の環境はけして悪くなかったが、二十歳超えた男が、毎日親と顔を合わせて飯を食うのはそれなりのストレスだった。
理想を言えば、親と顔を合わせないニートみたいな生活であれば、したかった気がする。
けれど僕は貴族ではなかったので、そんな生活はできなかった。
労働者階級の子供は、大人になったら働かなければならない。
悲しい現実だった。

金銭欲の原点

もともと子供の頃から物欲は薄い方だった。
人よりいい服が着たいとか、いいモノが欲しいとか、そういう気持ちがなかった。
金が欲しいと思うようになったのは、高校生になったとき、親に私立高校の学費のことで文句を言われ始めたときだったと思う。
高校生の頃に自分が書いた文章を見ると、いの一番に「金が欲しい」と書いてあった。
都内の大学に通うようになって、それは更に強まった。
親から仕送りをもらって、大学の近くに一人暮らししている同級生がうらやましくて仕方なかった。

あとは金をもって、好きなマンガとかCDとかを、発売日に定価で買えるようになりたかった。
コンビニで立ち読みしたり、TSUTAYAでレンタル落ちになるのを待ちたくなかった。
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学生と社会人の使える金額の差

社会人になったとき、最初はすごく割のいいバイトをはじめた感覚がした。
大学時代、月20万稼ぐために、どれだけ働かなければならなかったか。
もちろん働き始めてすぐというのは、何かと出費が多かったので、自由に使えるお金は大してなかった。
二年目が特に残業が多く、土日は死んだように寝てたので、ひたすら金が貯まって、そこから楽になっていった気がする。
金銭感覚を少しずつ緩めていって、たとえば5000円くらいの居酒屋ならまあ普通かと思うようになった。
海外旅行も、休みさえとれれば、いいレベルのホテルに泊まれた。

都内サラリーマンの限界

「ちょっと欲しい」くらいのモノは買えるようになった。
カバンとかスマホとか旅行とか。
だいたい10万単位の買い物は、そんなに無理をせずにいける。
100万円単位だと躊躇うが、継続的に収入があれば、一年スパンくらいで払える。
たとえば車買うとか、ピースボートで世界一周とか。
1000万円単位になると、途端にキツくなる。
100万円というのは絶妙な金額で、一年ぐらい本気でバイトして貯められる額だ。
もちろんかなり禁欲的な生活になるだろうから、それができる人はかなりストイックだと思う。
1000万円を用意するのは相当厳しい。

カイジでも利根川が一千万について言ってましたね。

世間の大人どもが本当のことを言わないなら俺が言ってやる・・・ 金は命より重い・・・!
そこの認識をごまかす輩は生涯地を這う・・・・・・!!

人は‥‥‥金を得るためにその時間‥‥人生の多くを使っている  言い替えれば自分の存在 命を削っている‥‥‥‥!
つまり‥‥人は皆‥‥サラリーマンも役人も‥‥‥命懸けで金を得ている‥‥‥‥!
気が付いていないだけだ 極端に薄まってるから その本質を多くの者が見失ってるだけ‥‥‥

何も築いてこなかったおまえらに どこまで想像が届くかわからぬが
想像してみろ いわゆるレールの上を行く男たちの人生を
おまえらのようにボォーッとしちゃいないぞ…!
小学中学と塾通いをし… 常に成績はクラスのトップクラス
有名中学 有名進学校と 受験戦争のコマを進め 一流大学に入る…
入って3年もすれば 今度は就職戦争… 頭を下げ 会社から会社を歩き回り 足を棒にしてやっと取る内定……
やっと入る一流企業… これが一つのゴールだが…… ホッとするのも束の間 すぐ気が付く レースがまだまだ終わってないことを…
今度は出世競争… まだまだ自制していかねばならぬ…!
ギャンブルにも 酒にも女にも溺れず 仕事を第一に考え
ゲスな上司にへつらい 取り引き先にはおべっか 遅れず サボらず ミスもせず…
毎日律儀に 定時に会社に通い 残業をし ひどいスケジュールの出張もこなし…
時期が来れば単身赴任… 夏休みは数日… そんな生活を10余年続けて 気が付けばもう若くない 30台半ば・・・40
そういう歳になって やっと蓄えられる預金高が… 1千 2千万という金なんだ… わかるか…? 2千万は大金… 大金なんだ……!

ツッコミどころはあるけれど、1000万の預金貯めるのがキツイっていうのは正しい。

普通のサラリーマンが、1000万単位の買い物をするときは、たぶん一度しかない。
家の購入である。

家は最高の贅沢らしい

東京というか、都会で働く人間の不幸は、住環境が例外なく悪いということに尽きると思う。
最近はマンション購入でも、家族で住めるサイズだと、4000万以上がザラだったりする。
郊外まで行くと結構いい家を建てられる印象。
ただ東京の会社で働く限り、朝晩の通勤電車で消耗することは避けられない。

芸能人が何億かかけて豪邸建てるけれども、結局金を稼ぐ最終到達点が、豪邸を建てるというところで終わるらしい。
ビル・ゲイツ並の大富豪になると、別荘を建てて、二軒目・三軒目ということになるのかもしれないが、
そういうことができるレベルの大富豪というのは、日本にはそうそういない。

「金を稼いでいい暮らしをする」ということの到達点が、「いい家に住む」というところなんだろう、と最近思った。

住宅ローン

僕の大学時代の友達は、結婚して即5000万くらいの住宅ローン組んでマンション買っていた。
金利は低いし、住宅ローン減税とかもあるので、イケるっちゃイケる。
理性では回せるとわかっているのだけれども、どうしても何千万という借金を負うことに対しての恐怖がある。
周りの先輩が住宅ローンの返済で切り詰めているのを見ると、やはりローンを組むと身軽ではいられないのではないか。

サラリーマンの生涯賃金は二億と言われているので、ちゃんと働き続ける限り、理論上返済はできる。
(ていうかだから銀行も融資してる訳で)
問題はその生涯賃金は、あくまで各年齢を積分した数字であって、
ある年齢で自由になる金が1000万超えることってほとんどない気がする。

今の住環境は最悪だなと思ってるんだけども、
だからといって何千万も貯金してマンションを一括購入なんてする頃には自分もいい年になっていて、
そこまで待つぐらいなら今すぐ住宅ローン組んで返済していった方が、今いい家に住める分マシじゃないかと思うけど、
かといってローン組む勇気もないので、今の住環境は最悪だなと思ってるところ。

人のために使う

家の話はあくまで自分のために使う金の、最高金額が家、という話なんだけども、
家を買ったり、建てたりするそもそものモチベーションってやっぱ子供の存在だろうと思う。
「あなたは何のために金稼いでるんですか?」と聞かれたとき、「家族を養うため」と答えるサラリーマンがほとんどな気がする。

僕は家族を養っていないので、去年寄付をしてみた。
昔読んだなんかの成功本で、年収の10%を寄付しろ、という話があって、
それは良い習慣だなと思ってずっとやろうと思っていた。
たださすがに10%というのはキツかったので、もっと額としては少なめにした。

ずっと児童養護施設とかに寄付しようかと思っていたが、あんまり信頼できる団体がなさそうだったので、
大学時代ちょっと関わったことがあった団体がやってる、貧困家庭の支援活動に金を出すことにした。
今のところ二通ぐらいお礼状が来た。
普段生きていて、世の中が悪い方向にしか向かっていない気持ちがしてしまうので、
世の中をいい方向に持っていっている気分になれるのはいいな、と思った。
働くモチベーションの一つにはなった。
(それだけでバリバリ働けるほどではないが)

まとめ

つらつら書いてきたけれど、「これが俺の金を稼ぐ理由だ!」と一言で言えるようなものはなく、
自分のやりたいことをやるために働いて、お金を稼いでいる、というのが理由なのかね。
やりたいことが何なのかって突き詰めてくとこれもまた辛いんだけども、
低俗なところでは好きなもの食べるとか、行きたい場所に行くとか、住みたい家に住むとかそういうことなんだろう。
もっと高尚なところでは、自己実現だの社会貢献みたいな欲があるので、寄付とかを通じてそれを満たす。
(了)

2018年の目標

2017年の振り返りを書いたので、2018年の目標を書く。

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2017年の振り返りというよりかは、2016年に落ち込んだメンタルを立て直していったのが2017年だった。
そのため途中から2016年のつらい気持ちを書きまくる記事になってしまった。
書いてる内容自体は、正直なところを書いているので、むしろもっと掘り下げたい気持ちがある。
近いうちに、どこかで書いてしまいたい。

(目次)

統合する、という意味

前回の記事の最後に、2018年の目標は書いた。

来年は、色んなものを統合する年にしたい。
文章を書く自分と、投資する自分と、働く自分とが、一人の人間として説明可能なようにしたい。

正直もう2017年が終わってしまうというときで、時間に追われて強引にまとめにかかって、こういう雑な文になった。

もうちょっとちゃんと書くと、元々僕は芯のある人間ではなくて、その場その場に合わせて生きてきた人間だ。
大して仲良くない人間には、「芯がしっかりしてそう」と評価されるけれど、
そう見えるのはその場に合わせた人格で振る舞っているからなんだと思う。
どんな場面でも同一のキャラで振る舞うというのは、カッコいいけれど、現実的には厳しい。
先輩の前だと後輩としての振る舞いがあって、同世代といれば同世代として、先輩として振る舞わなければいけないところでは少し偉そうに、とか、
その上で共通した性格はあるんだろうけれど、細かいところでは矛盾が出てくるだろう。
後輩に説教したけれど自分は全然できてないとか、先輩が同じミスしたら見て見ぬふりをするとか。
その程度は人間なら誰でもあると思うんだけれど、もっと深い部分で僕は分裂している。

たとえば人生で何が一番大事かと聞かれたときに、場合によって金と答えたり、家族と答えたり、色々変わる。
日本の政策で新しい法律が施行されるときに、それがよいのか悪いのかと問われたとき、
本当に自分の中でどちらがいいのか、答えが出せなかったりする。
大学時代、定量的に分析可能でない問題というのは、考えないようにしていた。
それはそれで問題へのアプローチとしては意味があったんだけれど、
計測できないものについてのアプローチが、高校生ぐらいから進歩してないように思える。
高校までは、文学とか歴史とかが好きなタイプだった。
大学で経済学をやって、英語をそこそこやった。
会社入ってプログラミングをやっていて、見事にその知識がバラバラになっている。
自分のことが器用貧乏だなと思い始めた。
どの分野も専門家には叶わないが、ちょっと見識がある(あるいはそう自分では思っている)という状態だ。
オールラウンダーとして生きていこうと思っているので、別に方向としてはいいが、これ以上戦線を広げるのはやめたいと思っている。
人間のリソースには限界があるし、時間は有限だ。
とりあえず飯の種として、仕事が軌道に乗ったので、なんなら今ある知識で短くともあと二、三年は食いつなげる。

将来への不安への対処として、自分の本業と関係ない中途半端な資格をとったりする人を何人か見た。
たとえば全然会計なんて触れないのに、簿記二級とったり、海外なんて行かないのに英語やったり。
別に他の分野を勉強すること自体はムダにならなし、楽しいと思うけれど、
それって本当にやらなきゃいけないことからの逃避なんじゃないか? というふうに見えるときがあった。
確かにスキル形成というのは難しいけれど、戦力の逐次投入は何事もあまりよくないのではないかと思う。

僕の場合、これ以上何かを広げるというよりかは、過去やってきたこと同士が分断されているのをなんとかしたほうがいいと感じている。
簿記二級も昔とったけれど、じゃあいざ自分が働いている会社の財務がどうかというのは全然知らない。
なんなら普段利益すら気にしていないときがある。
(部署があんまり利益にうるさくないところ、というのもある)

大学時代はひたすら興味あることに対して知識を拡散させていく時期だったが、
そろそろそれを収束させなければいけないときが来ているように思える。
一生拡散させていようと思っていたが、そうすると器用貧乏で終わってしまう。
隠居みたいな生活になったら、全然役に立たないことを勉強するのもいいんだろうけれど、
不幸にして僕はお金を稼がなければいけなかった。

会計とか仕事とかは本当のところはどうでもいい話で、
音楽とか文学とか芸術とか、そういう感覚を使うものの方が僕の中では価値が高い。
どういう本を読んできたとか、どういう音楽をきいてきたかとか、
そういうものもひっくるめて、一つの人間が抱えているものとして統合したいと考えている。

逆に、そうしないと今後人生で迎える問題に対処できないような気がしている。
たとえば車を買うかどうかにしても、経済的な問題だけ考えればよいのであれば、カーシェアでよい。
けれど、もしあなたに三歳の子供がいたらどうだろう?
子供を病院につれていくときは?
習い事につれていくときは?
車があったほうがいいのではないか?
そもそも経済的にベストを考えたら子供なんてつくるべきではなかっただろ?
とか。
ここで本当に問題なのは、「三歳の子供がいたら車買った方がよいか、カーシェアで十分なのか」ではなくて、
金という一つの価値基軸に対して、子供という別の価値基軸があることだ。
フィナンシャルプランナーは金の節約方法は教えてくれるけれど、子供を幸せにする方法は教えてくれない。
どちらかの価値基軸をとってしまう、という選択肢もある。
金の亡者になるか、究極の親バカになるか。
けれど現実は、その中間をとらなければいけなかったりする。
孔子のいうところの中庸がどこか探ることになる。
中庸って一体どこなんだ、というと誰もわからない。
正解がない問題というのは、世の中むしろ多い。
そういう問題に対してアプローチするときに、自分の中で整理しきれてないと、何か大切なものを見過ごすことになる。

もうちょい具体的に書くと、大学時代はとにかく金が欲しくて、
金があれば自分の人生はだいぶマシになると思っていたんだけれど、
そもそも何のために金稼いでんだこれ、という気持ちになった。
なるべく問題を単純化したかったので、本当は違うのはわかっていたが、
金さえあればよいと考えるようにしていた自分がいた。
そもそも経済学をやっていたのも、もう四年前になっている。
色んな知識はついたけれど、それが全然バラバラで、使いづらい状態になっているな、というのが問題意識として生じてきた。

2017年の振り返り記事でも軽くは書いたんだけども、何のために金稼ぐかは別切りの記事にして突き詰めたい。
(2018/01/06追記)
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書きました

酒を控える

本格的に酒を控えるようにしようと思う。
この四年間ぐらい、相当酒に頼ってきたが、そろそろ飲みたいという気持ちもなくなってきた。
すごく飲みたい、というよりかは、単に習慣として飲んで寝る、という感じになっている。
飲んだら飲んだで美味しいが、いいことではない。

酒を飲んでしまう原因は、間違いなく仕事のストレスなので、
まずはストレス要因を排除していくようにしたい。

Twitterから距離をとって、ブログ中心にする

長らくTwitterやってきたのだが、短文でぽんぽん書いていくのは、
思考としてあまりよくないなと思うようになった。
あんまり突き詰めて考えなくなってしまう。
長い文章を書いていると、自分の中で矛盾して、「あれこれはなんでだ」と立ち止まって考えて色々整理できたりする。
Twitterはスピード感がある分、過去のログにはならない。
ブログのほうが自分の財産になる。
(アフィリエイト的な意味でも)

Twitterアカウント消すことも一時考えたけれど、あれはあれで表面的ではあるもののひとつの人間関係ができているので残そうと思う。

ブログに心の記事を書く

今までこの「四十三庵」というブログは、白黒はっきりつけられる話題を扱おうという傾向があった。
なるべく定量的なデータを見つつ、客観的な記述をして、何かの記事を書いた。
映画の感想とか音楽の感想とかはさすがにデータもクソもないので、感じたことを書いた記事もあったけど、メインではなかった。
高校生ぐらいから、「何かを議論するとき、多少国語力があれば、基本的には賛否どっちでも主張できるな」と気づいた。
そこで本当に正しい選択をするためには、統計データのようなエビデンスがないとダメだなと思ったのだった。
「ごちゃごちゃなんか書いてるけど、これは主張にすらなっていない」というのは世の中けっこうある。
ロジカルに議論する際は、感情というのは排除すべきだ。これは正しい。

ただ生きることにおいて、感情を排除することは不可能だ。
そこを勘違いしているつもりはなかったが、掘り下げは足らなかったと思う。
「ごちゃごちゃなんか書いてある」部分に、重要な点がある。
基本的には自分の心が抱えている問題について、つらつら書こうと思っている。
結構ブログのスタンスとしては転換点だと思う。
思い返してみると、もともと当初はそういうブログにするつもりではじめたんだった。
ただ大学生だった僕の思考回路が、急速に経済学に寄っていったために、文学的というか、エッセイみたいな記事というのは書かなかった。
エッセイ的なものを書くというのは、ツッコミやすいので、レベルの低い議論になることが多くて、当初嫌だった。
2ちゃんねるで繰り広げられていた、「たけのこの里派」と「きのこの山派」の戦いみたいなことはしたくないと思っていた。
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2011年に書いたのに、未だにアクセス多い記事だが、
この記事なんかはエビデンスを何かしら出してるのと、固めのテーマに対して割と穏当な結論なので、
なんかしょーもない批判みたいなのはそんなに来なかった。
これがたとえば「少子高齢化進むけど、経済が衰退しても幸せならいいじゃん!」みたいな書き方だったら、
もっとイデオロギー的な批判に晒されたかもしれない。

最近のブログ業界は、アフィリエイトとSEOが進みすぎて、完全に商売っ気強くなりすぎてるなという問題意識があり、
それも、もっとエモーショナルなスタンスでやっていこうと思うに至った一つの理由。

まとめ

自分の中ではもっと細かい目標はありますが、それはブログに書くことではない気がしている。
最低でも週一くらいで何か書きたいなと思っているんですけど、実際どんな感じになるかはわかりません。
(了)