四十三庵

蔀の雑記帳

ポジティブな発言の難しさ

仕事をしはじめて、ポジティブな発言というのを求められている。
前向きで、明るいコメント。
何かを褒める言葉。
これがなかなか難しい。

もちろんそれっぽいことは言える。
問題はそれが嘘くさくならないことだ。
どうしても嘘くさくなる。
人間的な問題というのもあるが、基本的には誰が言ってもくさんくさいものだと思う。
テレビのグルメレポーターが「美味しい!」と言っていて、
「ああ、あの店は美味しいんだ!」と素直に思う人間がどのぐらいいるだろうか。
逆に「あの店で一回食事したんですが、あまり口に合わなかったですね」と言っても、
「そんなこと言っても実は美味かったんだろ?」とはあまり思わないはずだ。
ホントにまずいかどうかはともかくとして、そのときその発言者がそう感じたんだろうな、というのは信じる。

なぜポジティブな発言は、嘘くさくなってしまうのか。
いくつか要因を考えてみた。

日本には褒める文化がない

日本に限らず、中国の儒教文化に影響が強いと、褒める文化がない。
「論語」にも「巧言令色鮮し仁」と書かれているように、
むしろ褒めまくる人は軽薄であると見なされることが多い。
あやしい自己啓発とかあやしいベンチャー企業とかはやたらと人を褒めるけれど、
まともな組織であればそんなことはない、という雰囲気がある。

アメリカ的な文化圏だとけっこーそんなこともないのではないかという気がする。
スタンディングオベーションで賞賛したり、野球の監督も選手を褒めたりする。
「お世辞」というのが文化的に扱いが違うっぽくて、
ちゃんとしたお世辞が言える人間が、ちゃんとコミュニケーションがとれる大人の人間として扱われているのではないかと思う(知らんけど)

出る杭を打つ文化

日本には出る杭を打つ文化がある。
そのため褒めることで、相手を出る杭のようにする場合がある。
なので、褒められた相手も「いやいやそんなことないです」と自分を卑下しなければいけない。
「私は出る杭ではないのです。
 あなたたちと同じ高さの、なんでもない杭なのです」
と言わなければいけない。

陰湿な京都民は、相手を批判したいときに、相手を褒めるらしい。
「えらい立派な帯どすなあ」と言われたら、
「帯、派手すぎて悪趣味やで」という意味らしい。
京都の人間が、本当に立派な帯で褒めたいと思ったときはいったいどうするのかはわからない。

批判する方が論理的に楽

批判が強くなりがちで、称賛が弱くなりがちなのは、論理的な弱さによるものだと思う。
何かを批判したい場合、その論理的な根拠は一つで良い。
「人を殺す場合があるから、飲酒運転は悪い」など。
逆に「◯◯はよい」という主張は、多くの反例を潰さないといけない。
「Suchmosはいいバンドだ」という主張をしたくても、
「雰囲気が嫌い」とか「神奈川出身なのに田舎者感出しすぎてムカつく」とかいう批判を潰さなくてはいけない。

冷静に考えると、批判とか悪口とかもすべての反例を潰さなくてはならないんだろうが、多くの場合許されがちな気がする。

教育で批判的思考を学ぶ

大学に入って、教授が強調しがちだったのが、「批判的精神の重要さ」だった。
日本のインテリは「筋の通った批判できる=知識人」みたいな空気がある。

「イジる」コミュニケーションスタイル

あとあんまり人を褒めても面白くない。
人の変なところを指摘して、笑いをとったほうが雰囲気が良くなるし、親密な感じがする。

褒められるような行為をすることはそんなにない

ノーベル賞とったり、野球で勝ち投手になったり、
テストで学年一位になったりすれば、それはさすがに褒められるだろうけども、
人間普通に生きているとそんなに褒められるようなことはしない。
普通に仕事してるだけだと、そんな褒めるようなケース自体がない。

特に会社で部下を褒めるとなると、ここが難しい気がしている。
大きな功績をあげてるなら褒めやすいが、ルーティンワークをきちんとこなしたとか、
地味だけど会社組織としてけっこー大切なこととかは褒めづらい。
無理やり褒めても「お、おう……」みたいになりがちである。

まとめ

そんなわけで、人を褒めるのは難しいという話でした。
(了)

2017/08/29北朝鮮のミサイル発射時のドル円レート

個人的に学びがあったので、残しておく。

 

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ミサイル発射が2017/08/29の五時とかそこら。

そこから108.3円まで急落して、ヨーロッパ時間に至るまでにじわじわ戻したけど、やっぱりまた急落した。

 

まあでもアメリカ時間に急激に戻して、110円超えるくらいまで戻す、と。

なるほどね、という感じ。

個人ブログは死ぬのか

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飲食店がチェーン店ばっかになったみたいに、インターネットも淘汰が進むのかもしれない。

 

どういう状況なのか

スマートフォンの普及で、インターネットの利用者は増えた。

しかもじっくり見る、というよりかは、

飲み会で店を探すので、○○駅の近くのよさげな居酒屋を探したいとか、

ポリウレタンで出来た素材は洗濯できるのかどうか調べるとか、

そういう用途で検索をかけることが増えたのだと思う。

 

短い時間でパッと知りたい情報が欲しい、というのはインターネットユーザー永遠の願望なので、

Google検索の上位にそういうニーズに近い、Yahoo知恵袋だとか、Naverまとめとかが並ぶのはまあいいだろう。

 

しかし、たとえば「手ぶら バーベキュー」とかで検索すると、

ある会社が運営しているバーベキューサイトが上位に出てくる。

このサイトが結構不自然で、全然聞いたことないのになぜかGoogle検索の1ページ目に出てくる。

(全然口コミもない)

執念深く調べて見ると、不自然にそのサイトにリンクを貼ったページが出てくる。

一見個人運営を装ってはいるけれど、

「手ぶらでバーベキュー大好きブログ」

みたいな、やたら無機質なサイトで、運営会社が同じ都内のスポットをひたすらオススメしている。

 

これはおそらく完全にSEO対策で、

急造のサイトであっても、こんな風に被リンクがたくさんあれば、

Googleからすると、本当に急に人気が出て、言及数が増えたスポットと区別がつかない。

 

無論、Googleの方もSEO業者との戦いはしていて、

そういうサイトはページランクを下げるように色々アルゴリズムをいれていると聞いていたが、

ここ数年でもうGoogleの検索結果はだいぶ汚染されてきたなと感じる。

それだけSEO対策が向上した、とも言える。

DeNAとかは人雇ってゴミ記事量産しまくったりしたけれど、

もはやそこまでやれば、検索サイトからしたら手の打ちようがない気もする。

人間が見れば、「この記事は明らかに業者臭いな……」と思うけれど、

アルゴリズム的に判別しようとするとかなりしんどい。

 

質のいい情報を得ようとなると、なかなかGoogle検索だと厳しくなってきたな、という印象がある。

 

個人ブログは死ぬのか

個人ブログもプロブロガーみたいなひとたちがあらわれて、

また空気感も変わっていると思うけども、読むに値するもんはそんなないような印象がある。

(別に四十三庵が読む価値がある記事がたくさんあるとは言わないけども)

 

自分を表現する場としての、個人ブログはもう終わりつつあるのかなという気が僕はしている。

仲がいい人間に、自分の思考や経験をばらまくツールならば、SNSでよいし、

不特定多数にそれがやりたいなら、それぞれのジャンルに応じたサイトでやる、

たとえば食べログのレビューを書くとか、Yahoo!知恵袋の回答を書くとか、

そういう風にシフトしていくのかなあという気がしている。

もちろん有名人のアメブロとかは残ると思うけども、一般人がなんか書いたのを一般人が読むみたいなんはなくなってくのではないか。

 

そのうち検索にもヒットしなくなって、書き手もいなくなる。

「昔はおじさんもブログとか書いてたんだよ」

「ブログって何?」

「自分が思ってることとかを書いて、インターネットに公開するんだ」

「へえ、それって誰が読むの? 友達?」

「いや、知らない人」

「へえ〜。知らない人が、たまたま検索エンジンでヒットした、知らない人の文章を読んで、何か情報を得たり、コメントを残したり、トラックバックで言及したりするのって、なんだか不思議」

「そうだね」

「楽しかった?」

「うん。とても楽しかったよ」

「それならよかったんじゃない? 今は何も残っていないけれど、きっと誰かの人生に、ほんのわずかでも影響を与えたんだもの」

「そうだね。そう思う」

 

昔はインターネットに公開したら一生残るなんて言われたが、実際は情報の海にどんどん消えていく。

(了)