四十三庵

蔀の雑記帳

田中康夫「なんとなく、クリスタル」

○書評について このブログでは、書評というのは、本の内容の表面的な部分を極力排除して、 文学作品の核心的部分だけを取り出して記録しておくような、そんなものを目指しています。 後は、ちょっと気になったことなんかも書きます。 ○価値観 1980年の東京が舞台。 高度経済成長のさなかにうまれて、大した貧困も経験せずに過ごした世代。 その唯物的な価値観が活写されている。 アジア・太平洋戦争の敗因の一つが、明らかに現実無視の精神主義にあったことを、 「反省」した日本人が育ててきた若者達の、「自由を謳歌する」姿。 2009年に生きる僕としては、この辺で青春を送ってきた奴らが、親である訳です。 この小説の主人公と母親を重ね合わせてしまうと、晩御飯が食べられなくなりそうだ。 ○無権威主義(本物を見極めようとする主義ともいえるかも) 注からは、田中康夫個人の考えがかいま見れて、興味深い。 無権威主義とでもいうべき思想が、彼の諧謔の根底に流れている。 といっても、その後彼は政治進出して、自ら権威となろうとしているので、 随分底の浅い思想ではあるのだけれど。 ○現代のブームとの関連 現代の日本の不可解なブームの正体も見えてくるかもしれない。 誰も使っていないのに、流行語大賞に選ばれて話題となった「アラフォー」という言葉も、 バブル崩壊以前の大量消費の感覚を、未だに持っている世代を狙ったものだろうし、 「ちょいワルオヤジ」とやらも、この小説の時代の、見栄っぱりの男どもを狙ったものだろう。 つまり、金払いのいい、極度に流行に流されやすい、三十から五十歳辺りの奴らを標的とする、 マスコミと連動した、高度な商業戦略なのだろう。 ○バブルの亡霊 となれば、現代の若者の間で起きているのは、 物質主義から精神主義への回帰であるととらえることもできる。 もはやテレビと雑誌が流行の最先端をつっぱしり、東京が中心となって、 若者がそれをしゃにむに追いかけていくという状況は成り立たなくなった。 携帯電話とインターネットによって価値観の多様性は、 無論不完全なものではあるが、以前よりずっと、はっきり反映されるようになっている。 バブル期の若者の、一つの典型的な価値観が書かれているのかもしれない。 マジメに何かすることへの軽蔑。 何かを深く考えることはせず、自分の感覚を大事にして、選択してゆく。 そんな態度が、バブルを膨らましていった訳だ。 資本主義の進展が精神にもたらす知的怠惰とみなしてもよいかもしれない。 無論この、バブル期の価値観は、 当時の若者全てが共有していた訳でもなく、批判も多かった。 この小説が、馬鹿売れしたけれど、文芸評論家からは酷評をうけたのは、 バブル期の価値観が、年寄には受け入れがたかったからだ。 (お前らがそういう若者を育てたんだろうが、という批判は、今も昔も不変である) また、文芸評論家などという、かびのはえた連中以外にも、 岸本葉子さんが「クリスタルはきらいよ―女子大生の就職活動日記」という本を書いている。 読んだことはないが、どうも特に「クリスタル」でもなんでもない、 女子大生の生活が淡々と書かれているそうだ。 有名どころでは、サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ (MISS BRAND-NEW DAY)」も、 この手の価値観にまつわる曲である。 まぁ桑田圭祐の歌詞なので、何がなんだかわからないけれど。 バブル的価値観に関しては、後によく調べてから書こうと思う。 あまり触れられていないような印象があるが、 まぎれもなく現代の日本人の思想に深い影響を残していると思うんだけれど。 ○慧眼 田中さんは、この小説の最後に、日本が今後少子高齢化社会に突入するであろうというデータを、 きわめて無造作に載せている。1980年にこの問題に着目していたのは、慧眼である。 ○すこし踏み込んで 大体、バブル期に若者だった連中の思想は、いくつかの軸で成り立っていると思う。 多様性が著しく低い。 「自分だけの?」「自分らしく?」なんて言いながら、どんどん画一化していく。 基本的には、 ・お金って大事(拝金主義) ・金で買えないものもある(反拝金主義) の二つの軸と、 ・自分は日本人だ。日本は世界からなめられているから、軍拡すべきだ。(右) ・自分は世界市民だ。平和万歳。(左) という二つの軸を絡めれば、大方説明できてしまうような、浅薄な思想が多い。 無論細部については違いが出るけど、巨視的な観点だと、大して変わらん。 金で知性は買えないという話だ。 どんないい教育だって、馬鹿相手ではムダだ。 更にバブル期の日本の若者(今ではすっかり中年)どもの思想を浅くみせているのは、 その「無根拠な自信」というのが、実際は日本の経済発展に裏打ちされたものだからだ。 「しがない日本人」だなんて自虐しながらも、 裏ではその「日本人」であることにどれほど助けられているか。 しかし彼らは深く考えないことで、うまく自分の思想の基盤から目をそらしている。 金があるから拝金主義に陥るし、 金があるから反拝金主義なんていうきれいごとを並べられる。 どんなに日本が嫌いでも、その日本の経済発展のおかげで君は食っているし、 どんなにアメリカが嫌いでも、その軍事力や経済力の恩恵で君は生きている。 日本がなめられていてくやしいかもしれないが、 君も日本が戦争をしないから安閑と生きていられる。 そういうことから賢く目を逸らして、思想を形成しても、 そんなものは、あまりに卑劣ではないだろうか。 「なんとなく」という思考停止宣言は、そういう日本人の前提に対しての思考停止でもある。 別に僕は、思考停止を否定しない。 幸福に生きるためには、どうにもならない悩みを抱かず、適度に思考停止することが必要だ。 しかし完全に思考停止した人間は豚といっしょだ。 日本人というのは、日常的にはうまくやっている、程々とか中庸とかいうことが、 観念、思想においては、全くできない民族なのかもしれない。 ○「なんとなく、クリスタル」の文学的価値とは 僕がバブル期の価値観を憎む理由は、山ほどある。 個人的な縁故にも、日常的な些事にも、思想的な幼稚にも、ありとあらゆる面に、 僕はバブル期の価値観がかかわっているのを見る。 「なんとなく、クリスタル」は傑作である。 それは、単純に面白いということ、 自分で注をつけた形式が単に新奇なだけでなく、斬新であること、 何より、日本の文壇が直視しようとしない価値観を、 文学で克明に表現していることなんかが、主な理由である。 直視しようとしない価値観が即ち、僕がバブル期の価値観といっているものだ。 巷にあれだけ大勢、バブル期の価値観にとらわれている馬鹿がうようよしていたのに、 文学者というのは、滑稽なことに、 文学とは何ぞやとか、どうあるべきかとか、阿呆なことをいっていたのだ。 今だって状況は変わらない。 この小説は、第84回の芥川賞候補に選ばれ、結果、落選した。 芥川賞批判に関しては、後にやりたいと思っているので、あまり広げないことにするが、 この回の選評芥川賞のすべてのようなものより)もひどい。 大江健三郎さん以外、この小説に触れてすらいない。 その選評も、 「風俗をとらえて確かに新鮮だが、風俗のむこうにつきぬけての表現、つまりすぐさま古びるのではない文学の表現にはまだ遠いだろう。」「一般に軽薄さの面白さも否定しないけれど、文学の批評性とは、やはりもっとマシなものではないだろうか?」 ということである。的外れもいいところだ。 まぁ田中康夫さんの小説技巧がおそろしく拙劣なのも悪いんだけど、 それにしたって、「文学の表現」ではない、という評価は驚きである。 芥川龍之介だって、市井を歩いている人間を見て小説を書いていただろうに。 ○最後に 僕は東京が嫌いである。