四十三庵

蔀の雑記帳

ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」

○小説としての美点 あらゆる描写がすばらしい。 心理描写は非常に細やかで、登場人物の喜怒哀楽が読者にまで伝わってくる。 人物設定も実に見事で、ある種の普遍性すら感じる。 秀才の主人公、ハンス・ギーベンラート、 文学かぶれの天才肌だが成績は中の下くらいのヘルマン・ハイルナー。 釣りだとか、果汁絞りだとかの描写も楽しそうだ。 傑作は、言語の壁や時代の壁を超越するものであるようだ。 ○学問と人間 この小説の真に偉大な所は、主題が、 「学問を詰め込まれた人間はろくなものにならない」 ということであるにも関わらず、学問に伴う、純粋な楽しさだとか、知的な喜びだとか、 優越感だとかもきちんと書かれていて、学問の悪い面だけをとりあげていないことだ。 凡百の小説にはこの辺りの精神が欠けている場合が多い。 この小説は、そういった学問の肯定的な側面もきちんと書いているからこそ、 かえって主題が鋭くなって、その辛辣さが際立っているのだ。 特にハンスが休学になり、帰郷した後の、 無学な民衆の、馬鹿な、しかし幸福そうな生活描写が加わることは、 学問のもつ美点に対する、辛辣な皮肉となっている。 とはいえ、僕はゆとり教育を受けて成長した世代であるので、 もはや安直に、「やっぱ人間机にしがみついてちゃだめだよな!馬鹿やんなきゃな!」なんて、 よだれ垂らしながら言うような状況には生きていないのです。 車輪をなくして、豊かな人間育成を目指した社会が、結局のところ、 恐ろしい画一化に向かっていき、個人の規模では漠然とした閉塞感、無力感が支配し、 国家の規模では競争力、経済力を弱めていくのみであったのを知っています。 程度問題だと思うんですよね。 学問を押し付けて、人間性を犠牲にするのも誤りだし、 人間性を尊重して、学問を軽視するのもあさはかだし。 中国の中庸という思想は、ここら辺の機微をいみじく表現しています。 どの程度学問を強制し、どの程度人間性を尊重すべきなのかを、 明確に定義することはできないと思うんですよ。 そこに教育の根本的な問題があると思うのです。 ただ僕は、必ずしも学問と人間性が相克するとは考えません。 人間的にもまともで、学問も修めている人間というのは、 小谷野敦さんなんか見ていると、非現実的な思いすらしますが、しかし存在可能なはずです。 ○恋と友情 高校二年ぐらいで、「春の嵐」を読んだことがあるが、内容がちっとも記憶にない。 大筋は、脚に障害をもった主人公が女に恋して、その女が友達にとられて、 最後は友達が自殺する話だったと思う。 ヘルマン・ヘッセの文学の一つの主題が、恋と友情にあるようだ。 僕の定義だとヘッセの小説は「友達のいない奴が喜んで読む小説」なのだが、 特に恋と友情の描き方には、そんな印象を強く受ける。 学生時代に友達も彼女も自然にできていたような連中には、 この辺の描写が、何を書いているのかすらわからないかもしれないと思う。 ○ドイツ文学の論理性について 僕は海外文学をまともに読んだことがない。 受験を経験する以前は、読解力が今より更に低かったので、 大抵翻訳文の拙劣さに吐き気がして、うまくページが進んでいかなかったのである。 しかし大学生にもなったのだから、これからは心を入れ替えて、 多少の日本語としての汚さには目をつむり、海外文学も読んでゆきたいものだ。 この一作を、ドイツ文学全体にまで敷衍するのは乱暴だが、 しかし文章に流れる論理の明快さは、本来の日本語にはない、 おそらくはドイツ語の翻訳によるものだと思う。 僕は冒頭で、傑作は言語の壁を超越すると書いたが、 同時に言語は傑作に影響するものだとも考えている。 僕は日本語の曖昧さを愛するが、それと全く同様に、ドイツ語の明快さも愛する。 きくところによると、ドイツ語は文法をがちがちに固めてある言語らしく、 ドイツ人が英語を習うと、規則性のなさに発狂しかけるそうだ。 制約の多い言語が、自由な文学をうんでいると思うと興味深い。