四十三庵

蔀の雑記帳

「蝶々の纏足・風葬の教室」(新潮文庫) 山田詠美

○感想 僕この手の小説嫌いです。 ○「蝶々の纏足」 ・不良文化(酒、煙草、性行為)への憧憬 主人公の女は、幼馴染のかわいい女のお飾り的な立場を脱却するために、男と交際する訳だ。 彼女にとって、酒、煙草、性行為などの不良文化は、 ある種の身分制度から逃れるための装置なのだ。 個人的には「大人」の定義が気になる。 この小説内で、大人というのは、煙草吸って、酒飲んで、男をころがす女のことだ。 確かに、大人の女、という用法はよく使われる。 僕の定義とは異なるが、一般的には大人ってそういうことなのかな、と思う。 ・特異な表現 男の肉体の微細な部位に、生々しい欲情の描写は斬新だが、 はたしてそんな所に、真剣な欲情を覚えるものだろうかと疑問をおぼえた。 でも男という身分で、このあたりの現実性に茶々入れると、 「男にはわからない」などと否定されてしまう。 まぁ、僕も男は、女子供には理解できないものを持っていると思っているので、 僕が理解できない女の感性もないとは思わないのだけれど。 ・人格形成の過程での少女を包む価値観 大概の女の子って、家族からちやほや扱われていて、 その意味では各人が、各家庭のお姫様なわけである。 ところが、学校という空間は、少女に、お前はお姫様なんかじゃない、 平凡な一市民にすぎない、ということを、陰に陽に叩き込む機関であって、 特に外見の冴えない、性格の暗い幼女の受ける扱いには、残酷なものがあります。 この小説は節々で下品な程に誇張的なのだが、 その残酷さというのも、うんざりする程、描かれている。 周囲の幼女との対比のなかで、少女性を喪失する主人公の姿は、 多かれ少なかれ、どの女も経験してきたことなのだと思われる。 ○「風葬の教室」 ・「うんこ」という言葉の扱いがたさ 小学生のいじめなのだから、必然的に「うんこ」という言葉が出ることになる。 むしろそれは、使わなければならない言葉で、 「男たらし」も使われているが、これは不自然だ。こんな罵倒はしまい。 しかしやはり、文章全体から、「うんこ」という言葉だけ、浮き上がっている。 ここまで他の言葉との親和性を持たない言葉も珍しい。 河合塾鈴木慎一郎さんという、現代文の講師がいる。 博学でけんかいな奴なのだけれど、僕は大宮の河合塾で、何度か彼の担当する講習を受けた。 彼の雑談というのは、かなり独自の視点から語られていて、 教養が豊富な割に、自称知識人にありがちなかびくささがなく、 知的な面白味があってよいのだけれど、ある時、 谷口ジローの書いた明治文豪の生涯の漫画を誉めるあまり、 「僕は、君たちが読んでいるような漫画は、うんこだと思ってますから」 とうっかり言った。 僕は失望を禁じえなかった。彼は表現が尾籠に過ぎることに気付いて、 しまった、とでも思ったのか、少し言い訳した後で、 「でも、僕は本当にうんこだと思ってます」 と強調した。 別に彼の発言の是非は大した問題ではない。 事実、現在の漫画業界で商業的無内容が席巻して、馬鹿相手に発行部数を稼いでいる。 ただ、「うんこ」という言葉は、使用者にまで被害を与える、凶悪な言葉である、ということだ。 現実的には使われている場面は相当数あるのだけれど、 なかなか、自由に使おうとすると様々な制約が加わる。 ・子供は別に純粋でもない。むしろ残酷である。 その観点なら、こんな小説よりも、「漂流教室」を読んだ方がいい。 ただあの漫画は怖すぎる。 あれをちらりと読んだのは、高校生の時だが、それでも尋常じゃないくらい怖かった。 子供は純粋、という方々がいるけれど、 純粋という言葉は、曖昧なので、どうとでもとれるわけで、 場合によっては、四、五人ごろつきが路上で人を襲っていても、 「あぁ純粋だなあ」ということになるわけだ。 肯定的な意味合いで子供は純粋、というのなら、それは誤りである。 大人では及ばないほどに純粋で、大人では及ばないほどに残酷である。 また、純粋をつきつめていけば、動物的になる。 ・いじめの被害者の人間観 僕もなんとなくわかるけれど、いじめられた人間というのは、 いじめた人間どもを、非人間とみなすようになる。 昨今、被害者をむやみに美化する傾向があるけれど、 被害者の心なんていうのは、大概の場合、醜悪を極めると僕は思う。 ○「こぎつねこん」 愛情に包まれた孤独についての小説。 山田詠美さんの小説のなかでは、一番教科書に載りそうな雰囲気。 でもそう考えると、教科書に載る小説っていうのは、どうしても、無難で、あたりさわりのない、 どうとでもとれる、無味乾燥なものばかりになるのだなあと思った。 僕は村上春樹さんは嫌いだけれど、教科書に「七番目の男」が選ばれているのには同情する。 あれは村上春樹さんの中でも、指折りの駄作だ。 あんなのを載せるなんて、作家に対する嫌がらせに近い。 ○批判 ・主人公の性的魅力について クラスで迫害を受ける場合、容姿が優れていることはほとんどない。 「風葬の教室」で、主人公の小学生がいじめを克服するのは、 結局、容姿が優れていたからだ。 なんて安っぽい結論だろうか。 「ブスが嫉妬からイジメ開始」→「でも私の方が美人だから気にしないもん!」というだけの話が、 いじめ問題だとか、風葬などの特異な表現だとかで、きれいに装飾されているだけだ。 ・家族への態度 「蝶々の纏足」「風葬の教室」では、不良気味の女子高生の姉が登場する。 熱烈に愛し合う父母は、なんだか娘とうまくやっているけれど、この描写が非常にすっきりしない。 そういう家庭もあるにはあるだろうが。 女子高生くらいなら、反抗期で、 「私より先にお風呂はいんなっていったじゃん!」とか 「だからお父さんのパンツといっしょにしないでよ!」とか言い出すと思うけど。 また、この親は娘一人の教育に失敗して、今もう一人の娘も失敗しかけているんだけれど、 そこからの批判的視点がないのもやはりもやもやする原因なのだろうか。 そのもう一人の娘の、一人称で展開するので仕方ないっちゃ仕方ないんだろうけど。 ひねくれた視点としては、こういう風にしてDQN再生産が行われていく、ともとれる。 (リンク先「simple?憂鬱なプログラマオブジェクト指向の日記?」) 案外彼らは自己肯定的な精神構造をしているのだ。 ○総評 僕は綿矢りさの「蹴りたい背中」を読んだ時、あまりにあっさり読みおわってしまい、 何ともいえない、肩透かしをくらっているような気分を味わったのを覚えている。 個人的に、文章は、いいと思う。 戦後、特に八十年代以降から現在までの文学というのは、 文章のよしあしから問題にしないといけないのが、何とも辛い。 「蹴りたい背中」には批判も多い。 がしかし、何ということはない。 山田詠美さんがこの小説を書いたのが、昭和六十二、三年で、 この頃からしてもう、この水準だったのだ。 違いは、昭和だと直木賞で、平成だと芥川賞だったというだけの話。 近年の文学の一大特徴が、特殊性の追求なのだ。 「皆に共感できる小説」ではなく、「わかる人にはわかる小説」を書くようになり、 それがどんどんつき進められていった結果、 前者は不当に蔑まれ、後者は不当に重んじられるようになった。 「特別な自分を特別に書く小説」と言ってもいいかもしれん。 そういう意味では、「蹴りたい背中」なんていうのは、「わかる人にはわかる」時代の優等生だ。 狭い狭い狭い世界を描いている。 本来非現実的だと批判されるべき、高すぎる特殊性が、 文壇では、お偉い選考委員のお歴々が、よだれたらしながら愛でるものになるのだ。 そういう流行というか、時代というか。 小説は本の中でも低級なものだ、という批判が、大昔、大体戦前の頃にはよくあったらしい。 そういう批判への反論として、 「小説は一つの特殊から、偉大な普遍に至るものなのだ」 という論理がある。 僕は別に、世の中でどんなクソ小説がほめたたえられていようと構わないけれど、 山田詠美さんや綿矢りささんの、猫の額ほどの小説が普遍に至るとは思えない。 (とすると、下らない小説というのは、普遍に至らない小説のことなのかもしれない)