四十三庵

蔀の雑記帳

合理的倫理論

○個人的な意見 現代は価値観が多様化してきて、昔のように、 「こうあるべきだ」という規範をおしつけるのは、公の場では難しいことになっている。 「男らしくない」とか、「女の分際で」とか、 「人としてどうなんだ」とか、「まともな人間がすることではない」とか、 一昔前なら当然、言えたことが、言えないようになった。 それはそれでいい面もあるのだけれど、いきすぎている感がある。 たとえば、男があまり他人の悪口や陰口をこそこそねちねち言っているのは、 本当に女の腐ったような態度だと思うし、嫌悪感を覚える。 性差だとか、倫理だとかをおしつけるな、というのはごもっともだけれど、 その大義名分のもと、クズが最低の行動、しかし法律には触れない行動をとっても、 「それは価値観の問題だ」などと正当化されてしまうものだろうか。 そうは思わない。 非倫理的なものは、非倫理的なのだ。 むしろそれは、非難されるべきだ、と思う。 そこで問題になるのが、何が倫理的で、何が非倫理的なのかの区別だ。 僕は合理性の観点から、区別されるべきだと考える。 以下詳述していく。 ○なぜ人を殺してはいけないのか 「人を殺してはいけない」という倫理は、結局、自分が殺されないための倫理である。 自分がこの倫理を守った場合、相手を殺さない。 相手がこの倫理を守った場合、自分を殺さない。 だから、人間が安全に生活するため、「人を殺してはいけない」という倫理を守るのである。 まあこの説明には一つ問題があって、 じゃあ自分が殺されてもいい奴は、人を殺してもいいのか、という話になる。 最近は、死刑になりたくて、無差別殺人をする通り魔なんているから、 この点は、結構大きい欠陥なのだけれど、 これに関しては、当人を殺すしかないだろう。 つまり死刑の適用である。 ちなみに死刑廃止論について。 これは、「殺人は絶対悪」という前提から、 「仮に相手が殺人者だとしても、その罰に殺人を用いては、なんら倫理的な解決にならない」 と考え、「だから死刑は廃止すべきだ」という結論を導く。 しかしこれは、 「非倫理的な人間が生きて、比較的倫理的な人間が死ぬ」のだから、非合理的である。 ○差別の非合理性 合理的倫理観は、一見差別を助長する論拠になりそうである。 「部落民に、汚い仕事をさせる。 他の大多数の人間は、汚い仕事をしなくてすむ。 だから部落差別は合理的である」などと言うことは、成り立ちそうである。 合理的倫理は、原則的に、功利主義の価値観を内包する。 「大多数の人間の、最大幸福」を目的とする。 だから少数の大きな不幸が、他の大多数の人間の幸福に打ち消されてしまう場合がある。 そのため、差別の非合理性だけは、 きちっと、論理的かつ合理的に論証しておく必要がある。 被差別階級の中には、有能な人間がいる可能性がある。 また、差別階級の中には、無能な人間がいる可能性がある。 だから身分制度による差別というのは、 おのおのの能力と、役割が釣り合わない場合が出てくる。 だから、結局は、差別は非合理的なのだ。 もっとも、これはおまけつきで、差別が伝統的に行われると、 被差別階層の無能化がすすむ。 (例)アパルトヘイトによる白人と黒人の教育格差 伝統の力は恐ろしいのである。 まあとはいえ、やはりそれでも、長期的に見た場合、差別が非合理的なのは間違いないが。 今後何百年もたてば、解決すると思われる。 ○結論 規範のない時代にむけて、倫理観も変容しなければならない。 その時に根拠となるのは、やはり合理性しかないのではないだろうか。