四十三庵

蔀の雑記帳

芥川龍之介「羅生門」

○再評価・再読の気運 中学、高校時代読んで本は、 中高生の頃に読んだ本の目録 にまとめたが、今見ると大したものは読んでないなあと感じる。 僕自身の感覚としても、これは名作だ、と心からいえるような小説は数える程しかない。 しかし近頃、受験を通じて、読解力がかなり向上したことを受けて、 本を読む深度がかなり深まったように感じる。 中高生だった時分には、確かに本を読むことには読んだが、 はたして内容が充分理解できていたかというと、全然そんなことはない。 夏目漱石を読んだのは中学生の頃で、 なかなか面白いじゃないかと思ってもりもり読んでいたが、 小説の主題なんてほとんど考えず、物語を楽しむだけの読み方だった。 まぁ中学生に、明治期の日本の知識人の直面した苦悩を感じながら読むのは不可能だろうが、 それにしても雑な読み方をしてしまったと思う。 ただ、いくらちゃんと読めていなかったから、といって、 上記に列挙した本を全て読み返すのはうんざりする。 だから、当時読んで傑作だと思った奴だとか、よくわからなかった奴を読み返そうと思っている。 基本的には、同じ本を何度も読み返すのは退屈な作業だと思っている。 よく名作小説なんかで、「何度も読み返してしまいます!」なんて言ってる奴を見ると 理解できない気がする。名作ならもっと楽しい読み方をすればいいのに。 内容を隅々まで理解するというのもわかる。読むたびに新しい発見があるのもわかる。 が、はじめて読んだ時より、確実にその新発見の量は減る訳で、 大体小説なんか隅々まで理解する必要があるのかと思う。 話を記憶に定着させたい、と思うのかもしれないが、 僕は本なんて一度読めば九割九分内容を忘れていいと思っている。 じゃあ再読が無価値なのかというと、基本的にはほぼ無価値無意味であると言っていい。 しかしそれも、読解力が一定であれば、の話。 人間は、進歩することができる動物なので、 読解力があがった場合の再読は、有意義で、何より楽しい作業ではないかと思う。 ○「羅生門」はネット上で読める ちなみに、「羅生門」は青空文庫で読めます。 「羅生門」(現代仮名遣い) 「羅生門」(旧仮名遣い)(上下とも「青空文庫」) ちなみに旧仮名遣いの方は、漢字も旧字になっています。 ○「羅生門」を高校生に読ませてもわからん 「羅生門」は高校の教科書に載っている。 僕は高一の時に教わった。 「人間のエゴイズム」を主題にしている、と教わる。 いかにも皮相な読み方だと思う。 「羅生門」の持つ真の主題は、高校生には絶対にわからない。 また、文部科学省がそういう方向でこの小説を解釈しようとはしないだろうし、 そう解釈するなら、教科書には載せないだろう。 だからエゴイズムがどうという、煮え切らない解釈をして、 大体の高校生が、退屈な古臭い小説として、テストが終われば忘れ去ってしまう。 以下、その真の主題を明らかにしたいと思う。 その前に、明らかにするために必要な前提を説明しなければならない。 ○「羅生門」の最後の一文 青空文庫の、旧仮名遣いの方の「羅生門」を最後まで読んでびっくりしたのだが、結末が違う。 「羅生門」の最後の一文は、あの有名な、 下人の行方は、誰も知らない という一文で、高校の教科書には載っていたのだが、旧仮名遣いの方では、 下人は、既に、雨を冐して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。 となっている。さすがに教科書は厳しい校正が入るだろうから、 青空文庫の間違いかと思ったが、違った。これも正しいのだ。 wikipediaによれば、最後の一文は二度変更があって、今の文に落ちついたらしい。 (wiki「羅生門」より) 初出;下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。 短編集収録時;下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。 現在;下人の行方は、誰も知らない という経緯らしい。 ○芥川龍之介の人となり 芥川のイメージは、秀才で学業成績は抜群、 「ぼんやりした不安」から自殺した、というのが一般的なものだろう。 多分学校でもそう教えている。 彼は、非常に礼儀正しい、儒教道徳に則った、君子然とした青年であった。 このことは学校ではあまり強調されないけれど、別に意外とも思わないだろう。 ところが、彼の著作を丹念に読んでいる者であるなら、この事実に愕然とするだろう。 「侏儒の言葉」を芥川龍之介の最高傑作と信じる僕は、大いにこの事実に驚いた。 彼の文言には、倫理道徳へのすさまじい軽蔑があふれていたから。 「芥川龍之介の青春」というサイトがあった。良サイト。 この文章の、防御的性格、という一章には、その君子っぷりがよく描写されている。 「僕は芥川です。始めまして。」  さういって丁寧にお辞儀をされた。自分は前から、室生 君と共に氏を訪ねる約束になってゐたので、この突然の訪 問に対し、いささか恐縮して丁寧に礼を返した。しかし一 層恐縮したことには、自分が頭をあげた時に、尚依然とし て訪問者の頭が畳についてゐた。自分はあわててお辞儀の ツギ足しをした。そして思った。自分のやうな書生流儀  で、どうもこの人と交際ができるかどうか。自分はいささ  か不安を感じた(萩原朔太郎 「麻川氏(注・芥川のこと)は、両手をばさりと置いて丁寧にお辞儀をした。しつけの好い子供のようなお辞儀だ」(岡本かの子 僕は見知越しの人に会うと、必ずこちらからお辞儀をしてしまう。従って向こうの気づかずにいる時には「損をした」と思うこともないではない(「僕は」) 芥川龍之介は非常に礼儀正しい青年であった。 芥川龍之介の遺書というのがある。 僕は養家に人となり、我侭らしい我侭を言ったことはなかった。(と言うよりも寧ろ言い得なかったのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔している。しかしこれも僕にとってはどうすることも出来なかったのである。) 芥川自身は、自分の高い道徳性を嫌悪していた。 ○「羅生門」の解釈 これで前提は全て整った。 芥川が「羅生門」を書いたのは、東京帝国大学在学中である。 今の僕には、この小説が単にエゴイズムを描写しているだけだとは思えない。 この時の芥川は、若いのである。23才だ。 下人は、荒廃した、非人間的な環境の中にいる。 暇を出された身分なので、将来も暗澹としている。 そんな中、雨やみを待っている。 雨やみを待つ、というのは、きわめて受動的、消極的、防衛的で、姑息な行動だ。 下人はにきびを気にしている。 そんな下人が、どこまでも利己的な老婆に、正義心に冷や水を浴びせられたような気持ちになる。 老婆の独白は、彼にある強いメッセージを伝える。 「この世の人間は、総じて救いようのないクズだ。 倫理道徳は、他人を救うためのものだ。 ではその救われるべき他人というのは誰だ? 言ったろう。人間は救いようのないクズだと。 倫理道徳の想定する他人そのものに、価値がない! 倫理道徳は無意味なのだ!」 豁然とそのことを悟った下人は、もはやにきびを気にしていた、気の弱い、 消極的でちっぽけな正義感にとらわれていた、さっきまでの下人とは別人であった。 間違いなく芥川は、下人に自己を投影している。 倫理にしばられるおのれが、 鎖を断ち切って、老婆だけがうごめく死骸の山の中、 つまり利己主義者がうごめく非人間性の海、本人の言葉を使えば、娑婆苦から軽やかに脱出する。 そんな姿を、文学の中に描いたのだ。 芥川が、体質的に倫理道徳のしみついた人であったのは前述のとおりだ。 倫理道徳は彼の反射になって、彼の行動を縛り付けていた。 どんなに義理の両親を内心軽蔑していても、孝行をつくしてしまう。 はがゆかっただろう。 もし悪徳を改善しようと試みるなら、相応の苦難はあるだろうが、 美徳を改悪しようとするのに比べれば、ずっと容易だ。 芥川は聖人君子なんぞになりたくなかったのだ。 そういうフラストレーションが、「羅生門」の中に横溢して、訳のわからないエネルギーを放っている。 ○最後の一文の変更の意味 下人≒芥川と考えると、最後の一文の変更がかなり大きな意味を持つことがわかる。 強盗をしにいった、と言う結末なら、下人は完全に倫理道徳の呪縛から逃れたことになる。 あのにきびをさらすことさえ恥ずかしく感じさせる、憎むべき倫理道徳から、 下人は抜け出して、自由になったのだ。 しかし、現在の結末は違う。 下人の行方は誰も知らないのである。 強盗をしたのかどうかも、よくわからない、曖昧な表現になってしまった。 この小説を書いた時の芥川は、若さが強く働いていたから、 倫理道徳から脱却する自分しか描くことができなかった。 しかし書き終えてからしばらく時がたつと、「羅生門」を多少客観的に見るようになる。 彼の鋭敏な頭脳では、この結末が、 必ずしも軽やかな倫理道徳からの脱却とはならないことに、気づかない訳にはいかなかった。 元々芥川は悲観的な人間であるのだから。 下人は、いや芥川は、「倫理道徳は無価値だ」と悟り老婆の服をはいだ後でさえなお、 うじうじうじうじと、倫理道徳に則って、薄っぺらい正義感を断ち切れない可能性がかなり高い。 強盗なんて、できないかもしれない。 迷った末に、きちんと強盗を働けるかもしれない。 迷った末に、いよいよ餓死寸前というところで、ようやく強盗を働くかもしれない。 もしかしたら返り討ちにあって、あっさり殺されるかもしれない。 いややっぱり、元々の結末通り、即座に強盗を働けるかもしれない。 「下人の行方は、誰も知らない」 この文には、そういった様々な可能性が含意されている。 ○結論 要するに、「羅生門」の真の主題は、 「礼儀正しい若者が、いかにして良心の束縛から脱却できるか」 ということである。 なぜそんな反社会的な小説が国語の教科書に載っているのか。 不幸なことに、教科書作成者及び文科省の役人に読解力が足りないからである。