四十三庵

蔀の雑記帳

現代知を考える

○すべらない話 千原ジュニアケンドーコバヤシのすべらない話 ttp://www.youtube.com/watch?v=QfYUK58O7HI この動画に、アウトプットの重要性がわかりやすく述べられています。 ○理解(インプット)と表現(アウトプット) たとえば、どうすれば外国語がしゃべれるようになるかを考えるとしましょう。 まずはじめは、見知らぬ文字、見知らぬ音を理解するところからはじめます。 物事の学習というのは、何事もインプットから始まるのです。 徐々に学習がすすんでゆくと、今度は文章を書いたり、話したりします。 段々、アウトプットができるようになります。 その後はもう、インプットとアウトプットを繰り返して、その言語を自分のものにしていくことになります。 最終的に言語を習得したら、もう後はアウトプットがほとんどとなります。 たまに知らない言葉を辞書で引く、程度のインプットしか必要としなくなるのです。 このように、人間の学習過程は、 インプット ↓ インプット>アウトプット ↓ インプット=アウトプット ↓ インプット<アウトプット ↓ ほとんどアウトプット と進んでゆくのです。 ただしこの学習は、一つの方法であって、 勉強の内容によっては、ひたすらインプットばかりでも、問題ない場合もあります。 ただインプットなしで、アウトプットだけ、ということはありえません。 インプットとアウトプットの関係は、必ず、 インプット⊃アウトプット という関係が成り立つのです。 何人たりとも、インプットしてないことをアウトプットすることはできないのです。 (インプットしたことを、アウトプットできないことはありえるかもしれませんが) ○今までの僕の考え 僕は今まで、インプットを非常に重視して、アウトプットは必ずしも必要ないと思っていました。 確かにインプットさえすれば、学習は十分なんですが、非効率的であるという問題があります。 インプットの量を多くすると、どうしても処理しきれなくなるのです。 現代は特に情報社会で、情報量はどうしても多くなっているので、アウトプットの重要性はとみに高まっているのです かつての僕は、アウトプットすることで、 たとえば他人の批判を受けたり、つまらないミスを指摘されたりする手間が嫌で、 極力アウトプットをしない方針でいたのです。 これはむしろ前時代の知のあり方です。古き良き知と言ってもよし。 明治?昭和くらいの、研究室や書斎で、本の山に埋もれながら、ひたすら勉強している学者の持っていた知です。 僕が求めていたのは、まさしくそういう知でした。 しかし現代知というのは、だいぶ変質しています。 知は、表現されて、記録され、インターネットを通じて、世界中に発信され、世界中に共有されます。 googleが知の性質を変えてしまったんですね。 僕は前時代の知を伸ばそうと思っていたんですが、 大学入ってから、思想が変わって、現代知もいいなあと思うようになりました。 「前時代の知と現代知のどっちか」なんてケチくさいことは言わずに、どちらも伸ばしてしまえばいいんですね。