四十三庵

蔀の雑記帳

村上龍「愛と幻想のファシズム」

村上龍と経済 村上龍が、まあ最近は龍っていうか豚ですけど、やたら経済方面に進出していたのは、 この小説を書いたのが発端になっているらしい。 ○狩猟社会の選別 この小説の主人公、鈴原冬二はハンターで、農耕が社会をおかしくしたという思想を持つ。 狩猟社会では、弱者は淘汰され、強者だけが生き残っていた。 農耕がはじまり、経済が発展し、医療が進歩すると、弱者が生き残れるようになった。 「今の世の中は、弱い奴の声が多すぎて大きすぎる」 鈴原を党首とする政治結社、狩猟社の目的は、増えすぎた弱者を淘汰すること。 民主主義を否定し、暴力も辞さない。 この乱暴な弱者論は、民主主義が普遍的に抱える問題だ。 民主主義の理念としては、貴族以外の連中も、きちんとした教育を受けることで、 その才能を発揮して、社会の厚生を高めてくれる。 しかしそれが単なる理想論でしかないのは、今の民主主義体制の中で生きる我々なら、皆知っている。 学校に通う、九割の人間が教育を受けるに値しない人間である。 とにかく怠けることばかり考えている奴もいれば、そもそも学費だけ払って学校に行かない馬鹿すらいる。 そしてそういう、馬鹿とクズが教室の大半を占めれば、 まだまともな人間になる可能性のあった子供たちが、彼らに同一化してゆく。 この作用によって、九割以上の学生が、学校からしてみれば、 「学費を支えるため」に在籍させているだけの状態になる。 僕は、この民主主義のクズ増産作用の克服には、教育の質を高めるしかないと思っている。 「これで理解できなければ馬鹿」というレベルの授業を展開してやればいい。 そうすれば落伍者は、全て自己責任であると見なせる。 総じて現代の学生には、必死さが足らない。甘い。 まあぶっちゃけ狩猟社会の選別とやらの役割を、 現代では学歴が担っている訳なんだが、その観点が村上君にはないらしい。 日本が学歴社会というのは大嘘で、どんどん学歴の価値は下がっている。 まあさすがに中卒、高卒、大卒で雇用条件はかわるようだけれど、 同じ大卒内でそんなに学歴による選別をしなくなってきた。 聞いた話では、学歴での選別は東大京大一橋東工早慶まであればくぐりぬけられるらしい。 旧帝(東大京大除く)、千葉大あたりの地方国立や上智、東京理科大あたりは一流半らしい。 日本の学歴社会は、院に行こうがMBAをとろうが、雇用条件は変わらないという、 極めて奇妙な「学校歴社会」である。 東大の学部卒の方が、中央大学院博士よりも、好待遇を受ける。 こんなもの、学歴社会ではありえない。 中国、韓国、アメリカあたりが、本当の学歴社会である。 中国人は、北京大学を出た人間は、当然高給をもらい、高い地位を得るべきだと思っているし、 アメリカでは、MBA取得者が、大幅に厚遇される。 日本では院に進学すると、下手すると就職が不利になる、という 全く不自然な雇用状況の、本当に奇矯な「学校歴社会」である。 この慣習が、国際化した社会のなかで、日本人の相対的な低学歴化を招くという声もきくが、どうなんだろ。 ○小説の感想 労働組合の委員長が、演説中に薬物で上手くしゃべれなくなる所が、読んでいて怖かった。 この辺は才能だなあ。 全体的に構成が甘くて、本人が意図したシステムとの戦いという主題がかすんでいる気がする。 近頃の作家にありがちな、商業的冗長さが原因なのだろうけど。 後編の、終盤残り200頁くらいで急にだれてくる。 結局ウィッツとの全面対決もしないし。 「なんでこの小説が長いかっていうと、むだな会話シーンをいれこんで、 台詞の多さで頁数を稼いでいる訳なんだけど」 「そんなことは、いい」 「いや、大事なことなんだ。これはきいてもらわないと困る。 まずな、比喩が多すぎるんだ。なんでもかんでも直感に訴えかけようとするっていうのかな。 それ自体は悪いことじゃないんだが」 「ワンパターンってことだろ?」 「そう。後登場人物のすごさを、経歴並べて、 エキセントリックな台詞を吐かせることだけで表現しようとするからな。 この小説の作者って、女の子が一回バックでおまんこするのが好きって言ったら、 次からも毎回、同じことをして、女の子に嫌われるタイプだと思うな。 しかも自分ではなんで嫌われるのかわからない」 俺はなんだか自分のことを言われているような気がして、むかむかしてきた。 怒りは、世界にもやをかけてしまう。全てを曖昧にする。世界はもっとクリアでなければならない。 「獲物を追いかける時に、毎回同じやり方でしとめるようなハンターはいない。 いるとしたら、そいつは馬鹿だ。そのうち殺されるだろう」 「でも小説とハンティングは違うだろ?」 確かに違う。小説が狩る相手は、作者の目の前にはいない。 「最終的には、プライドの問題だな」 まぁ、人物描写自体はいいと思うんですけど。 山岸とか、洞木とか、トウジとか、ゼロとか、千屋とか、フルーツとか、後ハッカーの奴とか。 個性的だし、魅力的。 まああの台詞まわしはもうちょい考えないとダメだと思うけど。 最後ゼロは自殺する訳だけど、まあ多分ゼロはトウジの「ダメ人間」の部分を全て担っていたのであって、 宣伝の才能を発揮するゼロは、トウジにとってあんま必要じゃなかったんだろうね。 で、ザ・セブンも圧倒して、政権をとって、必要がなくなったあかつきに、殺すと。 トウジにとって究極のダメ人間っていうのが、死ぬ奴、つまり淘汰される者で、 理想の人間っていうのが、生き残る奴なんだよね。 トウジが理想に近づけば近づくほど、バランスをとるために、ゼロがダメになる必要があった。 ゼロも、自分はいくらダメでも、トウジという理想的人格によって、満足していた。 北海道行くまではそれが上手く行ってたんだけど、北海道ハンティングから、心機一転、 ゼロが宣伝部長でどんどん「いい人間」に近づいていったんで、その奇妙な相互依存が崩れた。 最終的に、ほぼ理想の人間になったトウジにとって必要なのは、 ゼロが究極のダメ人間になることだったと。 まあでも割とこの辺の描写はどうでもよかったなあ。 ゼロをそんなに強調する意味もない気がする。 無理に純文学作家の面しなくても、充分娯楽性があるんだから、 大衆小説として居直っちゃえばいいのに。 フルーツの描写が若干村上春樹の影響を感じた。 きっと読んだんだな。 ○他の主題 プライドとか、父性の問題とか、後ちょっとした日本論とか。 この手の小説に、経済を導入したのは面白いね。少し消化不良だけど。