四十三庵

蔀の雑記帳

「コミュニケーション不全症候群」中島梓

もう僕はこの手の、何ていうか、「いかにも文系っぽい評論」って言うのが読めなくなって来た。 中学生くらいなら、なるほどなーくらいに思ったんだろうけど、 高校生の頃にはもう「つまんないこと言ってんな」くらいに思ったろう。 今はこの手の文章自体に、あんま価値がないことを知りつつ、 広い心を持ってこういう感情のおもむくままに 書き散らされた評論から何か意味を見出そうという段階。 今僕の思考は、文系っぽさと理系っぽさが半々くらいになっているようだ。 経済学部でちょっと数学かじったくらいで理系面するつもりもないが、 かといって朝日新聞みたいな、文系の思考法にはなじめない。 散々文系だ理系だって言ってるけど、そんな絶対的な違いではなくて、 ここでは、ごく漠然とした印象を言っているにすぎない。 文系でも理系っぽい文章を書くやつもいるし、逆もまたしかり。 ここでは文系理系がどこでどう分かれてるのかとか、この区分に意味はあるのかとか、 そういう話には持っていかずに、二つは明らかに分かれているという前提で書くけど、許して。 (「そういう話」に関してはまたいつか書こうと思う) 文系と理系の文章の違いが何かって言うと、 理系の文章は肉が少なく、核しかない 文系の文章は肉が多く、核が埋もれている ということ。 核というのは、重要な意味を持った文、ということ。 例えば、 1「NHKは受信料をムダにしている。 受信料の使い先に関する資料を載せたから見て欲しい」 という文章は核しかない。これを、 2「NHKと言えば思い出すのが、私が学生の頃、友人のツテもあって、 NHKでちょっとした裏方のアルバイトをやらせてもらっていた。 その時、NHKのお偉方が出社したり退社したりする様子を見ていたが、 必ず一流会社のタクシーを使うか、ホントに偉い人達になると運転手つきの外車でお出迎え、 なんてのもいた。こりゃあどう考えたって我々の受信料はムダにされてんだろうなと思っていたが、 最近になってしっかり調べてみたらやはりムダになっていて、案の定であった。 受信料の使い先に関する資料を載せたから見て欲しい」 と書くのが、肉の多い文章。 大切なのは、必ずしも肉の多い文章が悪いとも限らないということ。 肉の多い文章が悪いんだったら、文学なんて、肉しかないっすからね。 肉も大事なんだと思う。 情報の伝達を考えたら、核しかない文章は優れているけれど、 核しかない文章って、あんまし人の心を動かさない。 文章における、「肉」の部分は、情報として考えたら、意味がない部分なんだろうけど、 かといって価値がないかというと、そんなこともない。 2の中の、アルバイト云々のくだりなんて、あってもなくても変わんないんだけど、 このくだりによって、だいぶ文章の印象は変わる。 おそらくNHKのバッシングを真面目にやりたいんなら、 1みたいな文章よりも、2のような文章を書くのがいいんだろうと思う。 いい加減「コミュニケーション不全症候群」の内容に移ろう。 これは、いくぶん古い本で、言われてることは現代でもそんな変わらないような感じもするが、 1990年代の著書なので、「オタク」を「おタク」と表記して、 そこから「お宅」という言葉に戻ってオタクを分析してみたり、 そもそもオタクが社会問題になった切っ掛けとして頻繁に宮崎勤事件が出てきたり、 オタクに関する分析は完全に時代遅れで、的外れ。 いちいち指摘すんのが馬鹿馬鹿しくなるくらいの的外れな文章が続く。 それにひきかえ、「ダイエット症候群」等の一連の女性心理に関する文言は、 著者が女の端くれであるためか、なかなか秀逸で、現代でも通用するのではないかと思う、 一応要旨を書いておくと、 現代社会は、生物の自然な生存競争から守られている。 そのため都市の過密は、強者が弱者から十分に居場所を奪うことができず、 結局誰もが自分の居場所を獲得できず、プライバシーは常に侵されている状態に置かれる。 そういう状況に適応するため、人はコミュニケーション不全症候群という症状を呈するようになった。 (コミュニケーション不全症候群というのは、病気というよりは、適応なのである) コミュニケーション不全症候群とは、自分が関係を持った人間、 家族、友人、恋人、知人以外の人間は、人間と見なさない症状のことだ。 電車の同乗者であるとか、通行人であるとかは、生きた人間だと思えない。 理屈ではわかっていても、本当の所は、生きた人間だと思っていない。 コミュニケーション不全症候群の発症例として、主にオタクとダイエットする女の二つを軸として、 主張が展開してゆく。 この手の「現代論」とでも言うのかな、 「情報社会が発達して人と人とのかかわりが希薄に?」みたいな文章というのは、 いくらでもあると思うのだけど、とても素直には読めないなあ。 ただ内容そのものはゴミであるとしても、こういう本を読むことで、 日頃自分が漠然と持っている意見が、対比として鮮明になってくるということがあるかもしれない。 それに、断片的な部分では、同意する部分もあった。 例えば、「家族、友人、恋人、知人以外の人間は、人間と見なさない」 「電車の同乗者であるとか、通行人であるとかは、生きた人間だと思えない。」 と言うのは、大半の人間がそうだろう。特に都内なら。 僕は大学一年の頃、何の嫌がらせなのか、ほとんど毎日一限で、 毎朝毎朝クソリーマンどもの群れにわけ入って、満員電車に乗っていた。 その経験上、知っている。あれは全員人間じゃない。まず全員目が死んでる。 あれだけ人がいて、会話も出会いもない。たまに話している奴らの声は、 ホントにぶち殺してやりたいくらい響く。 満員電車というのは、貨物列車である。人は一人も乗っていない。 この辺の精神は、何も症候群だのなんだと言うほど大仰なものでない気がする。 間違っているのは満員電車という環境だと僕は思う。 増発ももう限界なんだから、さっさと首都機能移転すればいいのに、 頭悪い都知事が「将来世代への負担になる」から断固反対だそうで。 都知事の存在自体が将来世代への負担なのでございますが、 そんな都知事を再選し続ける都民を思うと、優秀な埼玉県民の僕としてはうんざりしてしまいますね。 情報化社会がどんなに進展しても、今の所、人付き合いが消滅するとは思えない。 情報技術の進歩で、消えてしまうような脆い美徳なら、 そもそも社会にとってそんなに必要でもなかったということだろうし、 古いものであろうと、残るものはちゃんと残るよ。 楽天amazonがいくらシェアを伸ばしても、既存の店が潰れる筈もなく、 携帯とmixiがあれば中高生のコミュニケーションはそれが全て、なんていう風になる筈もない。 大概の現代文明の批判者というのは、自分がそういう情報機器を扱えないもんだから、 やっかみ半分で、そういう理論をこじつけて、何だか的外れな理論を、 文章表現でがんばって膨らませて、なんとかまともな体裁だけは整えてんだけど、 何分自分でもよくわかってないものを批判するんで、あんまり意味のないものになりがちな印象。 では人のことはとやかく言うけれど、自分はどう考えているのかということだけど、 その辺も掘り下げて書きたいな。