四十三庵

蔀の雑記帳

理系と文系

「コミュニケーション不全症候群」について書いた時、 感じた文系と理系のもろもろの差異について、書く。 ○僕は文系を選んだ 「男は理系で、女は文系」という固定観念が、一つ上の世代ではあるそうだ。 最近の研究では、脳の構造的にも説得力がある話で、 必ずしも無根拠な偏見ではないのだけれど、性差別の一環と見なされることも多い。 僕なんかは、男だけど理科は苦手で、国語が得意だった。 僕は文系を選択した訳だけど、そこには深い理由はない。 単に国語、社会ができて、数学、理科がふるわなかったから、文系を選んだだけだ。 今では後悔することもたまーにはあるが、まあ大筋においてはよかった、というか、 そうせざるをえなかったのだと思っている。 ○文系と理系の区別は無意味 明治期の日本は、富国強兵を学問面から支える機関として、帝国大学を建てた。 帝国大学では、文系と理系は厳格にわけられた。 法学部に進めば、ほとんど数学や理科をやることはないし、 医学部に進めば、国語や社会を学ぶ必要はなかった。そんな講義もない。 当時の日本は学問的にも後進国で、(江戸時代の和算なんかの話をきくと、 必ずしもそう言えないんだけど、当時の人々の認識としては、間違いなく遅れてると思ったろうね) なるべく早く先進国並みの学問水準に引き上げなければいけない都合上、 文系に理系科目を教えるような余裕がなかった訳だ。 現代の学校教育はその名残りで、割と文系理系がかっちり分かれる。 そう。現代の理系文系の区分けは、実はあんま意味がない。 別に文系が理系科目やったって、理系が文系科目やったっていい訳だ。 それを阻んでいるのは、単に怠惰と愚昧だろう。 上位進学校では文理の区分けが無意味だとちゃんとわかってるし、 生徒のレベルも高いので、受験ぎりぎりまで、全員理系扱いにして進むそうだ。 僕の高校は、何というか進学校の中でも、近視的な受験対策をする所だったんで、 文系選択はホントに数学のレベルががくっと落ちたし、?Cもやらなかった。 物理もやらなかったし、(物理はちょっとやりたかった)化学も一年の時だけだった。 二年以降はずっと生物か地学を選択。 まあ理系は文系科目、文系は理系科目をおろそかにするから、 僕の高校は、勉強しろ勉強しろっていう校風の割に、大した進学実績あげらんないんですけど。 ○文系的、理系的 ただ現実として、文系と理系の区分けは行われ、 その結果、文系的な人々がうまれ、理系的な人々がうまれている。 文系的な文章が書かれ、理系的な文章が書かれる。 いちいちある文章に対して、それが理系的だ文系的だと指摘することに大した意義はないけど、 両者の差異を考えてみるのは結構面白いので、娯楽にはなるだろう。 書評でも書いたことを繰り返すけれど、 ・文系的文章→骨が少なく、肉の多い文章 ・理系的文章→骨が多く、肉が少ない文章 というのが、僕の考える二つの分類。 僕自身の文章はどうなんだろうな。 昔は骨しかないような、理系的文章の中の理系的文章を目指してたけど、 最近ではもうちょっと肉を増やしてもいいのかなあと思っているから、 理想的には適宜肉を増やしたり、骨を増やしたり、柔軟に書けるのがいいかな。 で、この両者の違いがどこから出てくるかというのを考えるのが、この記事の目的。 ○文系が数学を勉強してみて思ったこと 「僕の私の大学受験」で書いたように、僕は大分数学をやった訳だけど、 その中で感じたのは、数学という学問の理論の厳密性。 たとえば、数Aの論理の所で、 Aという命題に関して、逆、裏、対偶という三つを習うと思う。 A;「p→q」 Aの逆;「q→p」 Aの裏;「p`→q`」 (p`はホントはpの上に線引きたいんだけど、できないので、代用しているだけ。pの否定) Aの対偶;「q`→p`」 ということだ。Aの真偽がわからなければ、対偶命題の真偽を考えても、 真偽は必ず一致するので、何も変わらない。 こんなことができるのは、理論の厳密性の賜物だ。 他の学問ではこうはいかない。 背理法もそうだ。 p=Aというものを、p≠Aを仮定して、矛盾を導くのが背理法だけど、 こんなのも、理論が厳密でなければ、絶対にできない。 おそらく学問の中で、一番厳密性が高いのが、数学だろうと思う。 現実の世界で、背理法を適用しようとしてもむだだ。 だって、現実の論理は、そんなに厳密じゃない。 疑うなら、 「あなたが私を嫌いだとする。…(1) (1)が成り立つなら、あなたは私を見て、気分が悪くなるはずだ。 気分が悪くなれば、私の目の前にいたくなくなる。 よって、(1)が成り立つならば、あなたは私の目の前から逃げている筈だ。 ところが、あなたはげんにこうして、私の目の前にいる。 以上より、(1)は成り立たない。 したがって、あなたは私を好きなのだ。 結婚してください!」 とどっかの女の子に言ってみてね。 なんで上記のすばらしく理論的な告白が成功しないかというと、 数学では、Aの否定がA`だし、A`の否定A``は、即ちAである、ときわめて単純化されている。 否定の否定は肯定である、という規則が、数学の論理性に厳密性を与えているのだ。 現実はこんな単純でない。 「えー、○○君のことはー、嫌いじゃないけど、でも好きではないっていうか。 なんて言えばいいんだろ。友達以上恋人未満っていうか」 などと言う論理が平気で成り立つ。 常識的な言語感覚で言えば、 「Aである」 「Aでない」 「A`である」 「A`でない」 の四つは、それぞれ全然違う意味を持っている。 具体的に言えば、好きではない、というのは、イコール嫌いだ、とはならない。 (ホントは嫌いだって言いたいんだけど、相手を思いやって言えない時もあるけど) この手の曖昧さを数学の論理の中に導入すると、途端に数学は役に立たなくなるだろう。 背理法も使えなくなる。 「√2は確かに有理数ではないよ。有理数ではないけど、無理数かどうかもわかんないじゃん!」 まあもちろん、数学でもある程度まで曖昧さを表現することはできるよ。 たとえば上の 「Aである」 「Aでない」 「A`でない」 「A`である」 を採用して、四つに分けてみる。上から順に、4、3、2、1と数字をふって、 肯定度が強い程数値が大きいと見なす、とかね。 でもそれって、結局現実の我々の感覚とは、全然違うものだと思うんだ。 そんなきっちり分けてないでしょ。 同じ「僕はカレーが好きだ」って言ってる人でも、 ホントに月に一度は全身にカレー塗りたくりたくなる衝動にかられる程好きなのか、 月に一度は食べないと気がすまない程度に好きなのかは様々で、 結局その場その場で、自分の中にある、きわめて曖昧な意味に、 世の中に流通している言葉を借りて、誰かに伝えようとしている訳だ。 数学で正確に表そうとすると、正確でなくなってしまうというジレンマ。 なんでこんな問題が起こるかと言えば、数学の厳密性が、人間の厳密性を超えているからだ。 ○厳密性こそ文系と理系をわける柵 上に書いた厳密性こそ、文系と理系をわかつものだと僕は思う。 文系の連中なら、「理系は細かい」という偏見を持っているだろうけど、 それもあながち間違いでない。 厳密性が高いので、厳密性が低い者から見ると、細かい風に見えるのだ。 でも実は理系の世界の論理っていうのは、すごく整理されていて、 実際細かいのは、色々なものが曖昧になっている文系の論理だと僕は思うんだけど、 ま、印象としてはね。 ○理系は頭がいいのか? 散々厳密性の話をしたけど、別に論理の厳密性が低いから、文系が馬鹿だと言いたいんじゃない。 理系がいいとか、文系がいいとかいうつまんない話をしたいんじゃない。 「文系は馬鹿で、理系は知的だ」という世間的評価が結構あるけど、どうなのかね。 まあ僕自身文系なんで、いくら 「いやいや文系と理系は役割が違うんだ、知能の差じゃないんだ」 なんて主張しても、かっこ悪いだけなんで、やめときますけど、 でも理系の人は実際すげーと思うよ。 ○理系の弱点 理系の人の強みは、 「ほとんどの人がわからない分野に精通してる」 ってことだと思う。 コンピューターにせよ、工業だろうと理学だろうと、何にせよ、 大抵の人はわかんないもんが扱える訳で、そりゃあ社会で重宝されますよね。 ただ僕が感じる理系の弱点は、専門性が異様に高いこと。 ていうか各分野が難しすぎるんだと思う。 経済学だと、普通経済学者って言ったら、マクロ経済専攻であっても、 ある程度他の分野も語れる訳だけど、 理系だと、量子力学のある一分野だとか、電子工学のある一分野だとか、 きわめて専門的な分野の知識は高い。けど一歩でも外に出ると、途端に普通の人になってしまう。 まあでも、別に理系だけの話じゃないか。 経済学の教授だって、法学に関しては何も知らない訳で。 いやでも、理系の方が多分専門性高いかな。 自分の分野しかわからないってことは、理系の方が多いんじゃない。 よく考えたら、理系が何してんのか全然知らねーや。 知らない奴らの弱点がどーこー言ってもしょうがない。 想像で人の批判しちゃいけない。 おしまい。