四十三庵

蔀の雑記帳

デカルト「方法序説」谷川多佳子訳

今年の夏休みも長かった……
しかしようやく大学もはじまった。
夏休みは本当に何もしていない。
バイトで少々金を貯めたくらいで、なんら生産的な活動をしていない。
暑かったしね。頭働かなかったもん。
本もあんま読んでない。
まあ大学時代に怠けていたということが、いつか大きな財産になる日も来るだろう。


さて、デカルトの「方法序説」である。
原著"DISCOURS DE LA ME´THODE"Rene´ Descartes(e´はeの上になんか´が乗ってて、多分大事なものだろうから、つけておきました)
フランス語です。
フランス語はわからないので、フランス人のSの読み飛ばしっぷりには驚愕してる。
このフランス語で書かれているというのは、当時知識人は当然ラテン語で書くべきという風潮のヨーロッパで、
「一握りのインテリだけではなく、ラテン語はわからないけど知的情熱を持つ市井のフランス人も読めるように」という
デカルトさんの熱いメッセージがこめられている。


方法序説」。
名前くらいはどっかできいたなーって人が多いと思うが、かくいう僕もその一人だ。
小難しい本だというのはわかるが、何についての本なのかはよくわからない。
それが大方の本音ではなかろうか。


実は、「方法序説」は単なる序文である。
500ページ超の大論文の、その序文だけが有名になってしまったのだ。
元々は「理性を正しく導き、学問において心理を探求するための方法の話(序説)。
加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」というのが、その大論文のタイトル。
ホントは「方法序説」の後に、屈折光学と気象学、幾何学のすんばらしい発見が続くはずなんだけど、
まあ現代ではほとんど読む者もいない。
科学的にはそんなに価値はないけど、
方法序説」に書かれた、真理を探究するための方法論は、現代でも有益であろう。


二箇所くらい、私は自分が他人より優れてるなんて思ってないよアピールが出てくる。
以下、概要。


○第一章
学校で学んだことも役に立たない訳ではないし、書物の知識も確かに実り多いものである。
しかし本当に真理を求めるならば、むしろ世界という書物に学ぼうではないか。


○第二章
ドイツ行って、ゆっくり考えた。
一人の匠がつくった街は整然としているが、歴史を重ね、たくさんの人の手が加えられた街は雑然としている。
法律も、姑息に追加されて出来たものより、ある一つの価値を貫いたものの方が、よりよい統治が可能となる。
よって、一個人が国家や学問を、根本から変革しようとするのは、有害である。


全ての事物の認識に至るための真の方法を探究するために、私は四つの規則を打ち立てた。
1、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと。
  即断と偏見を避け、疑いを挟む余地のないほど明晰に精神にあらわれたもの以外は、自分の判断から除外すること。
2、難問はできるだけ多く、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
3、思考は順序に従って導くこと。単純なもの→複雑なもの
4、全ての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。


この規則を守ったら、信じられないくらいたくさんの発見ができました(ホントかよ?)。


○第三章
真理がわかる前に、物事を判断しなければならない場合がある。
理性が私に判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、
三つ四つの格率を伝えておきましょう。

その1、自分の国の法律と慣習に従うこと。先祖から続く宗教を守ること。
    他のことについては、自分の関係する中で最も良識ある人の、極端から最も遠い、穏健な意見に従うこと。
その2、自分の意見をこれと決めたら、多少疑わしくとも、正しい意見と同じように一貫して従うこと。
その3、運命に頼るよりも克己、世界の秩序に頼るよりも自分の欲望を変えるよう、努力すること。
    (最善を尽くしても成功しないことは、それは当人にとって不可能なことだから、
     そういうことは望まない風に自己教育し、それを幸せと思えるのが何よりいい生き方だ)


○第四章
何事も確かなことはないし、どんな数学者も誤ることはある。
しかし、「我思う故に我あり」という真理だけは覆せない。
身体が存在しないことはあっても、精神が存在しないことはありえない。


世の中で完全であるものは何一つない。
万物は完全なる神に依存していて、神なしには一瞬間たりとも存続できない。
人はイメージできないものは存在しないと思うので、神がいないと思うようだが、誤りである。
神は「完全なる存在」として、現に存在する。
神がいないのならば、同時にこの世界に完全性も存在しなくなる。
「正しいもの」が存在しなくなるのだ。
デカルトの神観ってこんな感じであってる?)


○第五章
この章は心臓の働きについての考察。
デカルトは「熱」によって血が循環していると考えた。
言うまでもなく、そりゃ間違いなんだけど、ただこの辺の文章は非常にきれい。
僕が国語教師だったら、問題に使いたいくらいきれい。


人間と機械をわけるものは、「自分の意思で体を動かすかどうか」である。
人間と動物をわけるものは、「自分の思考を言葉に出来るかどうか」である。
これはすなわち、人間には理性があり、動物には理性がないからである。


○第六章
「まあ自惚れてる訳じゃないよ。自分の頭が人より優れてるなんて思ってないし。
けど俺様すげー論文たくさん書いてんだ。これ、発表する方が皆の利益になるのは重々承知してます!
でもね、もしそれで有名になって、反論が来たりなんかすると、そいつら相手すんのに、俺様の貴重な時間が削られるでしょ?
しかも大体反論ってクソみたいな内容で、俺が自分で考えてたこと以上のことじゃないんだよね^^;
ま、俺様の学問を進歩させられるのは結局俺様しかいないだろうし、論拠の点で、
不完全な部分も多いし、今は出版しないで一人で色々証明考えたりしてるわ。
あ、別に俺様が天才って訳じゃないよ?ただね、自分が発見したことは自分が一番よくわかるってこと……あるっしょ?」
こんな感じの内容が慇懃に書かれているのがここ。


また、共有知に関して書かれた名文がある。


「ところで私は、これほどに重要不可欠な学問の探求に全生涯を当てようと企て、
私の見出した道が、人生の短さと実験の不足とによって妨げられさえしなければ、
その道をたどって間違いなくその学問が発見されるはずだと思われたので、
この二つの障害に対して次のこと以上によい策はないと判断した。
それは、自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、
すぐれた精神の持ち主がさらに先へ進むように促すことだ。
その際、各自がその性向と能力に従い、必要な実験に協力し、知りえたすべてを公衆に伝えるのである。
先の者が到達した地点から後の者が始め、こうして多くの人の生涯と業績を合わせて、
われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである。」


まさにこれによって、科学はここまで進歩した訳だ。
(まあ皮肉なのは、そのせいでデカルトさんの発見が陳腐に見えることだけど)


○考察
・神について
デカルト宗教観は面白い。
完全性の権化としての神。
今までで一番納得のいく神の存在証明だと思う。
この「完全」という概念が、西欧科学の根底にあって、世界で最も科学の進歩した地域にしたのだと思う。
日本なんかの宗教観だと、不完全(曖昧)である状態を是とすることが多い。
日本人も知的な好奇心は強い民族っぽいけど、でも根底が大分違うから、
西欧みたいな激烈な真理追究の結果、飛躍的な科学進歩なんていうことは起こらなかった。
江戸時代の人の科学知識なんかは馬鹿にできないものがあるので、日本でもそういうことは起こってもよかったんだけど、
どちらかというと日本人は完全な科学の完成よりも、面白い方へ流れていこうとする。
不完全な科学を使って、現実に面白いことを何かしようとする傾向があった。
つっても、そんな西欧科学も、科学が進歩するにつれて、20世紀に
「不完全性定理」が発表されて、完全性の追及は潰えてしまった。


僕は一柱の神を信仰する気にはさらさらなれないし、それに敬虔な信仰を持てるとも思えない。


・人間について
人間とは何だろうかと考えた。
確かに「肉体」が存在するかはわからないが、「理性」は存在する(少なくとも僕の理性は)。
そして動物は理性を持たない(あるいは理性が少ない)。
精巧に人間の肉体の器官を複製してみても、それは多分理性を持たない。
とすると、どうして人間は「理性」なんてものを持ったんだろうか。
なるほど、「神が与えたのだ。したがって神はいるのだ」という説明は、確かにすっきりしている。


・昔の人間について
デカルトさんがうんうん言いながら悩んでいたようなことも、今は理科の教科書を開けば当たり前のように載っている。
これはとてつもないことだ。
そういう意味では、過去の人間というのは、今の人間に比べると、途方もない阿呆だ。
最近考えるのは、おそらくは過去の人間も、現代の人間も、大して変わらないだろうということだ。
確かに、身なりや習慣、知識、価値観なんかは多いに違うだろう。
けれど、人間であることは変わりない。
恐らくは寝て、起きて、飯食って、排泄して、働いて、喋って、あれしてこれして、というのは一緒だ。
過去の誰かと現代の僕を入れ替えても、恐らくは大して問題ない。
また賢い人間と愚かな人間というのも、本質的には大した差ではない。
(ただその小さな差が、現実には大きな影響を与えるのだが)
誰しも、同じ人間である。
ただしだから分かり合えるという訳でもないし、誰もが賢くなれるとか、そういう訳ではない。
本質的には小さな差異が、現実では大きな違いになってあらわれる。
何が言いたいのかよくわからない文になったけど、まあそんなところが僕の思想ですということで。