四十三庵

蔀の雑記帳

内田百輭「冥土・旅順入場式」

「感想」


異様に暑い夏の後、二週間の長雨があって、ようやく赤蜻蛉の飛び始めた秋のことである。
その日私は、正午からずっと、内田百間先生の「冥土・旅順入場式」を読んでいた。
ふと気付くと、書斎の柱時計が四時ちょうどを指しているのに気付いた。
随分時間が経ったものだなと少々驚いたが、気にせずに続きを読んだ。
一編の作品を読んで、また時計を見ると、今度は六時になっていた。
ここでようやく私はおかしいと思った。
百輭先生の小説は一作品六頁くらいの短編ばかりで、一編読むのに二時間掛かる筈はない。
庭を見ると、もうすっかり辺りは夕暮れになっていて、赤く染まっている。
庭の植木がなんだか赤い光を吸って、むくむくと膨れ上がっていくような気がした。
この辺りによく現れる野良猫が庭を横切っていて、私の方をちらりと一瞥した。
その顔が何人(たれ)かに似ているような気がするのだが、何人なのかわからない。
私は心細くなって、泪が止まらなくなった。
家族の顔が見たいと思い、居間へ向かった。
途中の廊下は、普段はそんなことは絶対にないのだが、長雨のせいで床の木が腐っていて、歩くたびにぶよぶよと不快な感触がした。
居間に行くと、家族は一人も居なかった。
ただ卓の上に私の夕食だけが用意されていた。
居間の時計を見ると、もう十二時になっていた。
振り返ると、外はすっかり暗くなっていた。
私は家族の名前を一人一人呼びながら、勝手口と玄関を調べたが、
靴は全員のものが残っているから、外へ出掛けたという訳でもないらしい。
寝室も風呂も厠も全て調べたが、何処にも居なかった。
私はいよいよ寂しくなって、泪が更に流れた。
仕方がないので、居間に行き、一人で食事をした。
食べながら、段段もう二度と家族とは会えない気がしてきた。
時計を見ると、十二時から一周して正午になっていた。
いつの間にか窓から昼の日差しが燦燦と差し込んできている。
私がふっと家族に会うのを諦めた時、時計はぐるぐると回りはじめ、いつまでも止まることはなかった。