四十三庵

蔀の雑記帳

論理の方向性を左右するものは感情である

特に理系に多い誤解だけれども、論理的な正しさが、人間の感情を超えて存在すると思っている人々がいる。
自然科学に関しては、ある程度そういうこともあるのだけれど、
社会科学、人文科学に関してはそうではない。
もっと厳密に言うと、自然科学もそうではない。
たとえば、ニュートンの物理学が正しいかどうかという話は、
いくらニュートンが嫌いでも、物理に嫌な思い出があっても、正しいと認めるだろう。
しかし、これが答えの定まっていない、あるいはコンセンサスが未だ形成されていない問題となると、
途端に人々の感情、思想、人間性が介入する余地が出始める。
一例をあげれば、量子力学の、二重スリット実験を巡るアインシュタインとボーアの論争である。
ボーアは、量子力学の不可解な結果に対して、不可知論の立場をとった。
つまり二つの異なる結果が併存することがありうる、という立場をとったのだ。
対してアイシュンタインは、自然科学の力の絶対性を信じていたから、ボーアを批判した。
ここで有名は、「神はサイコロを振らない」という発言が出てくる。


これは自然科学の中でも特殊例で、自然科学は基本的には、論理が感情に左右される余地は少ない*1
数学を使った、客観的な証明が存在するところが大きいのだろう。
社会科学、人文科学は悲惨なほど感情に左右される。
たとえば経済学では、ホントに学者の価値観によって、学問の解釈が変わってくる。
新古典派の解釈では、自発的失業というのはありえず、全て摩擦的失業ということになるけれども、
ケインズ派では、自発的失業はありうる。
マネタリズムでは、自然失業率という概念を考えている。
無論本来学問に感情が介入してはいけないから、自然科学の姿勢が学問の正しい姿なのである。


しかし、前述の量子力学の論争でも見た通り、自然科学でさえも、論理の中に感情に左右される余地*2がある。
ましてや社会科学、人文科学では尚更である。
(ちなみに自然科学>社会科学>人文科学の順で客観性・論理的厳密性が薄れてゆく)
とりわけネット上の議論などというものは、
いくら互いに理論的に応酬しているつもりであっても、結局は感情が理論の方向性を決めている。
前述のアインシュタインとボーアの論争も、詰まる所、彼らの信念、突き詰めて言えば彼らの感情による。


大抵我々が論理と読んでいるものは、二面性を持っている。
大抵、肯定的な側面と否定的な側面、両方あわせもっている。
そのどちらを協調するかは、論者自身の価値観、つまりは感情である。
後期高齢者医療制度は、あれだけ批判されたが、結局の所、
長生きに対して肯定的な人間、あるいは長生きした人間どもが批判しているのであって、
日本の高齢化社会で必要となる医療費社会福祉費に注目している人間は、この制度に肯定的であった。
きちんと双方の言い分をきいてみると、どちらにも理がある。
そういう場合、どちらの側に立つかは、結局の所自分の置かれた立場、自分の感情が物差しになるのである。
今回の結論として繰り返すが、論理の方向性を左右するものは感情である。

*1:コメント欄の指摘をうけて2011/9/6変更

*2:コメント欄の指摘をうけて2011/9/6変更