四十三庵

蔀の雑記帳

いかに生きるべきかという話

成人式に出た。
僕は公立中学出身であったが、さほど荒れていない所だった。
成人式や同窓会の模様を描写するのが今回の本題ではない。


○生き方のベクトルについて
僕は元来極端なものにあこがれながらも、実際の行動は常に中途半端をきわめていた。
中途半端に勉強したり、読書したりするし、
中途半端に遊んでみたり、サブカルに凝ってみたりする。
これはこの状態が自分にとって一番心地いいからである。
人によって、心地いい状態は違うだろう。


性格もブログの端々からにじみでるように、内向的であまり喋らず、容易に人と打ち解けない。
大学で社交性を磨こうと思っていたが、三か月ほどで挫折した。
同窓会では、フリーターもいたし、あんま頭良くなかった奴らは相応の大学に行っている。
多分十年後二十年後には悲惨な状況になるかもしれない。
しかしそれが彼らの不幸だとは思えない。
彼らには小中高大(or短大or専門)&バイト・塾と着々と築いた人間関係のネットワークで、
仮にフリーターを続けたとしても、それなりに充実した人生を歩めるのではないだろうか。
中には所得がそんなに多くなくとも、結婚して子供をつくる連中もいるだろう。
僕が同じ立場だったらまず不可能なことが、彼らにはできるのだ。
(主に社交性の問題)
人脈は力なのだ。
(相手が借金の保証人にしてこようとか、そうでなければ、というごくごく稀な仮定をつけることはできる)

カミーユ「命は…命は力なんだ。命は…この宇宙を支えるものなんだ。
それを…それを、こうも簡単に失っていくことは…
それは…それは!酷いことなんだよ!」


となると僕もいつまでも中途半端ではいられない。
僕の優位性は、単に表面的な学歴のみにすぎない。
(そして「身をたすく」程の学歴でもない)
何がある訳でもない。
長らく自分は「頭」で勝負するつもりはさらさらなく、
東大とかその辺の秀才層には全く敵わないと思っていたし、思っている。
ただじゃあ僕が社交性(俗っぽく言えば「コミュ力」)を発揮して、人生順風満帆と行けるかというと、そうもいかない。
知能と社交性を天秤にかければ、そりゃあ知能の方がまだ望みがある。
貿易論の「比較優位」の概念に近いものがある。


○最良の教師
高校くらいから僕は一貫して、

最良の教師は自分自身である

という思想を持っている。
この思想を、最近のビジネス書っぽい表現をすれば、

最良の結果を出したければ自分で自分をマネジメントせよ

ということになる。
セルフマネジメントの重要性とか、今更僕が説くまでもないだろうけど。


○方向と行動
少し電波な話をするけど、僕は高校の頃、「信吾さん」という架空人物を心の中で想像して、
マラソンとかで辛くなるとその人が叱咤激励してくるという風なことを考えていた。
「信吾さん」は基本的に倫理道徳の権化で、彼の指導に従っていれば質実剛健、有徳の素晴らしい人間になれるはずであった。
(「論語」の君子像を思い浮かべてくれればよし)
今ではもうあんま真面目にやる気は出ないけど、
これは「方向」としては寡欲な聖人君子を目指していて、
「行動」としては、随所根性を出したり、善行を積み重ねたりした。
具体的には、長距離を走るだとか、悪口を言わないとか、そんなもん。


セルフマネジメントに必要なのは、この「方向」と「行動」の二つ。
今回この「方向」が、おぼろげながら見えてきた。
自分の比較優位である知的方面の能力をもっと伸ばしていこう、ということだ。
そういう方向で行った場合、最近の「行動」はちょっと堕落しすぎている。
一日をだらだら無内容なネットサーフィンで終わらせる今の生活は、
ホントにクソみたいな生活なので、改めなければいけない。



以上もあんま中身のない抽象論だけどね。
実際の中身は人生その時々で補填されていくことになる。