四十三庵

蔀の雑記帳

坂口安吾「堕落論」

「堕落論」(青空文庫)


●文章
坂口安吾の文章というのは淡々とした、悪い意味で昔の人らしくない文章で、正直言って好みではない。
好みではないが、嫌いでもない。
内容次第ではまあ読んでもいいけれど、文章自体の味はあまりない。そういう文章だろう。
戦後復興期に台頭してきた、戦前生まれの作家なのに、
文章そのものはあんま古臭くない。今でもこういう文章を書く奴らは多い。
というか僕の文章も近い部分があるかも。
なんでこういう文章になるのかなあとWikipediaで経歴をつらつら眺めてみたが、
やはり外国語習得が大きいのだろうという結論に達した。
戦前の文章と最近の文章の印象がぜんぜん違うのは、日本語が英語化してるからだと思うんだけども、
戦前の人間であっても外国語の素養が高い連中は、自然と英語化した文章を書くのだろう。
つまり主語と述語のはっきりした、わかりやすいといえばわかりやすい文章だ。
本来日本語というのは述語さえあれば成り立つ構造で、「源氏物語」なんか読めば主語なんて飾りですよ、と思ってもらえると思う。


 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

言うまでもなく「堕落論」は、戦後のあの虚脱期に書かれたから、
人口に膾炙したのであって、他の時期であれば確実に流行らなかったであろう。
NHKの終戦特集で「堕落論」が引用されることは絶対にないし、また三島由紀夫のエッセイが使われることもまずないだろう。
社会というのは、そういうふうに歴史とか思想とかを、ある程度いいように濾過する機能を持っている。
一つの戦争であっても、複数の人間がいれば、複数の感じ方があるはずだ。
坂口安吾の言う「堕落」した人間の末裔が我々日本人な訳だけれども、彼は「堕落」を否定も肯定もしていない。


ただ「人間は堕落するものだ」という真理を、冷たく説く。
そしてその主張は、現代を見ても事実であった。
そして更に、堕落し続けることもできず、どこかで限界をむかえて堕落をやめる、とも主張している。
僕は坂口安吾なんていうのは戦後期の一時の流行だと思って、
あまり読まなかったけど、思ったよりも核心的な主張がされていて、感心した。
美徳に上限があるように、堕落にも下限がある訳で、
どんなに女の子が堕落したとしても、一日に百人の男と寝れますか、という話になる。
せいぜい平均一週間に一人さばければ上出来、というのが良い線じゃないか。


戦後六十年たって、我々日本人は堕落の限界に差し掛かっているのではないかと思うね。