四十三庵

蔀の雑記帳

プラトン「国家」の中の理想政治

夏休みに時間あるしたまには哲学書でも読むぜー、と借りてきたプラトンの「国家」だけど、
案の定夏休み中には全然読まず、いまさら読みました。
(大体大学に行ってる時の方が本読むんですよね・・・)
一橋受けた時に要約の問題が「国家」の洞窟の中で人々が影しか見てない、っていう話で、
いつか実物を読もうと思って、それを今更読んだ訳です。
この中から面白かった二つの比喩を。

  • 線分の比喩

ソクラテス)「(前略)すなわち<見られるもの>(可視界)と<思惟によって知られるもの>(可知界)と」
(グラウコン)「ええ」
「ではそれらを、一つの線分[AB]が等しからざる部分[AC、CB]に二分された形で思い描いてもらって、さらにもう一度、それぞれの切断部分を―すなわち、見られる種族を表わす部分[AC]と思惟によって知られる種族を表わす部分[CB]とを―同じ比例に従って切断してくれたまえ。そうすると、相互に比較した場合のそれぞれの明確さと不明確さの度合いに応じて、まず見られる領域[AC]においては、分けられた一方の部分[AD]は似像を表わすものとして君に与えられることになるだろう。ぼくが似像というのは、まず第一に影、それから水面にうつる像をはじめ、その他稠密で滑らかで明るい構成をもった事物にうつる影像など、すべてこのようなもののことだ。わかてもらえるだろうね?」
「ええ、わかります」
「それから、もう一つのほうの部分[DC]を、いまの似像が似ている当のものを表わすものと、想定してくれたまえ。つまり、われわれの周りにいる動物や、すべての植物や、人工物の類いの全体のことだ」
「承知しました」と彼。

グラウコン物分りよすぎだろ……というツッコミはなしで。
要するに哲学者は、「実像と思っているもの」(=影)と「実像」(イデアとかいうそうですが)を分けている訳で、
それと対応するように、思考の中でも「影」と「実像」が存在すると区別しとる訳です。
(この線要るか?)

この区別が理解できると、次の比喩も非常に飲み込みやすい。

  • 洞窟の比喩

「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。

 −地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった人口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ[ab]。彼らの上方はるかのところに、火[i]が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道[ef]が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなもの[gh]が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「思い描いています」とグラウゴンは言った。

 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」

 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。

 「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部[cd]に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」

 「そのとおりです」

 「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

 「そう信じざるをえないでしょう」

 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?[彼らのうしろを]通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「いいえ、けっして」と彼。

 「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」

 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。

 「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

 −彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。

 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何を示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」

 「ええ、大いに」と彼は答えた。

という訳で、「真実が見えている」哲学者が国家を統治すべきなのだ、というのがソクラテスの主張。

他に面白かったのは、この時代からもう哲学者というのはろくでもない存在という評判があったということですね。
冒頭で「正義」について語って、その後国家に関する話に移り、
最終的に哲学者の統治する国で、正義が守られるのが、国民にとって一番の幸せなのだ、というのがざっくりした趣旨。
最初は討論っぽかったのに、下巻に進めば進むほど周りがソクラテスイエスマンと化していく……

僕なんかは西洋哲学への理解があっさくて、
むしろ「論語」とか「老子」とかを中学生くらいんときに読んでまして、
古代の哲学者っていうのは、国は違えど、主張していることは似ているのは非常に興味深いですね。