四十三庵

蔀の雑記帳

処女厨を論破する文豪芥川龍之介

ネット上には近年処女厨と呼ばれる存在が増加しつつあります。



この漫画がわかりやすいと思います。
ただまあ現実問題ネット上の処女厨たちに女の子と二人でベッドに入るチャンスがあるとは思えない

そもそも日本は性的倫理がかなりゆるい国で、処女云々にこだわるようになったのは明治以降だと思われます。
(疑う者は「源氏物語」を読め)
キリスト教の影響で、欧米はかなり貞操観念には厳格な文化だった*1ので、
欧米文化の流入とともに処女崇拝も入ってきたのでしょう。
そのため、明治〜昭和前期(戦前)の頃の日本は処女・童貞が神聖化されておりました。
菊池寛の小説『受難華』(1926)には、

「照子さん、僕は童貞ではないのですよ。」
照子は、胸に釘を打たれるような衝撃を受けた。

というシーンがあるそうです。
まさに処女厨にとっては戦前の貞操観念強い時期は理想の時代だったのではないでしょうか。*2
(参考)
日本の童貞

ところがそんな処女崇拝の空気に痛烈な皮肉を残した文豪がいます。
芥川龍之介です。

 処女崇拝

 我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けても好い時分である。

処女厨が顔真っ赤にしてるのがモニター越しに見えるようです。
彼らはそもそも妻……いやなんでもないです。

   又

 処女崇拝は処女たる事実を知った後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者と云わなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構えているのも或は偶然ではないかも知れない。

●注
衒学者→学があるように見せかけている人。知ったかぶり、スノビッシュ。

ちょっと回りくどい皮肉になってますが、「侏儒の言葉」にはこういう論理展開は多いです。
要するに
「処女崇拝って、『好き』って気持ちより、処女というどうでもいい事実を優先してるよね。
恋愛って本来前者の感情を重視すべきなのに、どうでもいい事実を優先してる時点で、処女崇拝者ってなんか履き違えてるよね。
処女崇拝者がやたら偉そうにしてるけど、中身がないから態度でごまかしてるのかな。くすくす」
というくらいな意味です。
なんだかモニターの前の処女厨の呼吸がきこえなくなってきましたが、生きてるのでしょうか。

   又

 勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見ているものであろう。

黒髪美少女に一方的に片想いして、実は彼氏がいて幻滅する処女厨は「処女らしさ崇拝」に陥ってると言えるでしょう。

この記事を読んで、処女厨の皆様が一日も早く処女崇拝から抜け出せるのを祈って、筆を置かせていただきます。

  • 出典

芥川龍之介「侏儒の言葉」

*1:今は知りませんが

*2:なぜ現代に生まれてしまったのか