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四十三庵

蔀の雑記帳

経済学ノート

あんまり体系的ではないけども、今日思いついたことを書く。

  • trivial matterの捨象

経済学の体系について

家計→効用最大化
企業→利潤最大化
政府→社会的厚生最大化

貿易→国内では実現できない効用・利潤の達成

また、

家計→効用最大化→需要関数
企業→利潤最大化→供給関数

が決定される。
→一般・部分均衡理論

更に情報の問題、ゲーム理論などを導入して拡張はされているけども、
ミクロの枠組み自体は基本的にかわらない。

マクロになると、このミクロモデルを前提として、

Y=C+I+G+EX-IM

という恒等式で、GDPが表現できる。
財政政策、金融政策の諸々の議論はできる。
IS-LMモデル、リアルビジネスサイクル、貨幣数量説(マネタリズム)、DSGE(動学的一般均衡)モデルと、
色々あるけれど、ad hocなものであることは否めない。

そもそも経済を動かしているのは、人間個人と集団の行動・心理である。
個々の経済主体は完全に抽象化された存在としてのみ理論モデル内に存在する。

しかしこの簡単化は学問として成立させる必要上、なくてはならないものであって、
試しに一人一人の経済活動に関する行動・心理を考えて、それを積み上げて何か一つでも理論を構成してみればいい。
現代ではコンピューターが存在するので、
もし将来的に家計・企業・政府のあらゆる経済取引が電子マネーで行われ、
捕捉可能なものとなるのであれば、アルゴリズム実体経済の姿を解明し、
そこから何らかの経済理論を組み立てることは可能になるだろう。
しかし現状では単なる思考実験で、しかも「完全に正しい実体経済の姿」を知ることで、
完全な経済理論がつくれるかというのも怪しい。
「trivial matter」を網羅したとして、それで経済を叙述できたことにしてよいのかは大いに疑問である。

その一方で、現代の経済理論だと、将来我々がどういう行動をとるべきなのか、
つまり適切な財政政策・金融政策への示唆が弱い。
これはモデルの立て方によって、
「日銀の金融緩和が足らず、20年不況が続いてきた」
とも主張できるし、
「日銀が十分金融緩和を行ったのにも関わらず、20年不況が続いた日本経済はおかしい」
とも主張できる。
どちらの主張も正当化の方法はある訳で、そこが経済学の一番の弱点だろう。

何が問題なのかというと、前述の
「個々の経済主体の抽象化」
である。

抽象化してもいい要素というのは確かに存在する。
たとえば家計の消費行動は、先に挙げたような「trivial matter」を拾い上げなくとも、統計的に推測が可能である。
例をだせば、
A  50
B 150
C 400
という風に消費額が実際はばらついていても、「3人が総額で600使った」という事実がわかっていれば、
A 200
B 200
C 200
と平均化して考えてよい。

ところが、現実の経済というのは、投資銀行ヘッジファンドの投機的行為が存在するし、
政府の政治プロセスは必ずしも経済的合理性を満たしていないし、「社会的厚生」とやらも高めていなくて、
実際は政治家のインセンティブは社会的厚生よりも自らの得票である場合が多い。

特に税と国債については、理論と現実の乖離が激しい部分で、
もし日本政府が資金調達を国債ではなく税で行なっていたら、
果たしてGDP200%超分の資金調達は可能であったろうか。

僕の見る限り、今の経済学は(新古典派の時代よりは流石に進歩していて)
計量経済学の手法で、それなりに柔軟な分析は可能になっている。(恐ろしく複雑な数式化をともなって)
投機行動も分析しようと思えば、既存の枠組みの中に組み込むことは一応できる。
ところが現行のモデルでは、そこから当為命題「何をすべきか」を引き出そうとすると、そこは完全なる個人の価値判断となる。
「経済学の価値判断」というよりも、「その経済学者の価値判断」であることが多い。

  • 原則

統計データに基づかない経済の議論は一切ムダである。
「日銀が通貨供給量を異常に低く抑えてるから云々かんぬん」
という主張をする際には、当然通貨供給量の統計なりグラフなりを添えておかなければ議論にならないのは自明である。
にも関わらず、「二人とも正確な値がわかっていない状態」での議論は散見される。

別に法律の議論や、心理学の議論ならばそれでいいのかもしれないが、
経済の問題意識は最終的に数字に帰着することになるのだから、それではナンセンスだ。

  • 金融

「貨幣市場は事実上貨幣と債券を交換する場である」(岩井克人の著述)
目から鱗という思いがしたけど、確かにその通りで、貨幣を貨幣で買うことはありえない。

金融というのはやはりもっと明示的にモデルの中に組み入れないとダメなのではないかと思うところがある。
金融論の文脈のなかでは、確かに金融機関は登場するけれども、
その経済全体に与える影響が過小評価されている気がする。

  • 経済学とその時代背景

近代経済学の体系が確立した(ミクロ/マクロとわけて教えられるようになった)のは、戦後からのことだ。
サミュエルソンの「経済学」という教科書が草分けだったそうだけども、
その確立・進歩の時代背景というのは、先進国がWWⅡから復興をとげ、
日米欧ともにかつてない経済的繁栄を謳歌した(短期的な落ち込み、停滞はあったが)時期である。

教科書に物価関連で書いてあるのは大抵「インフレをいかに抑えるか」という話である。
これはなぜかといえば、20年間マイルドなデフレが続いた国なんていうのは存在せず、
インフレが普通で、デフレというのは大恐慌のような急激な景気後退時の一次現象に過ぎなかったからだ。

新しいパラダイムが要請されているように思われる。
しかし経済学会はそんなものは産めないだろうと思う。
政治家が票をインセンティブにするように、学者のインセンティブは学問による立身出世である。
それが本当に学問的価値のある業績であればいいな、とは願ってるだろうけども、
優先順位は「学会での評価」であるから、仕方ない。

  • 経済と経済学

economy ←→ economics
わけて考えなければならない。