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四十三庵

蔀の雑記帳

太宰治「斜陽」は駄作

論考

三島由紀夫太宰治を嫌っていたらしく、
坂口安吾よりも太宰治が売れている状況を、
「木が沈んで石が浮くようなもの」
と書いたり、

12歳の頃、『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』を、同じ痛みを感得して読む。その後、『斜陽』は雑誌連載時から読み、川端康成宛書簡には「滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります」と記している。しかし後には、この作品に登場する貴族の言動が現実の貴族とかけ離れていることに旧制学習院出身者として違和感を持った。1946年12月14日、矢代静一に誘われて太宰と亀井勝一郎を囲む会に出席したとき、三島の『私の遍歴時代』によると、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と「ニヤニヤしながら」発言した。これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたというが、その場に居合わせた野原一夫の『回想 太宰治』によると三島は「能面のように無表情」で発言し、太宰は「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。三島は、その後長らく繰り返し太宰への嫌悪を表明し続けた。『小説家の休暇』では「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」と記し、『不道徳教育講座』や奥野健男著『太宰治論』評や各種座談会や書簡にも、その種の記述が見られる。晩年には、1968年に行われた一橋大学でのティーチ・インで「私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど、おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反発するし、だからこそ逆の方に行くのでしょうね」(「学生とのティーチ・イン 国家革新の原理」)と述べたり、村松剛や『新潮』の編集者に対して、自らを「太宰と同じだ」という趣旨の発言をしている。
(wikipedia太宰治の項から)

というエピソードが残っていたりする。

没落する華族の娘の文体としては確かに拙劣きわまりなくて、たとえばここなんかひどい。

 老先生は私どもの亡くなった父上とも交際のあった方なので、さまは、たいへん喜びの様子だった。それに、老先生は昔から行儀が悪く、言葉遣いもぞんざいで、それがまたさま気に召しているらしく、その日は診察など、そっちのけで何かと二人で打ち解けた世間話に興じていらっしゃった。

完全に「悪い敬語」の見本のようになっている。

太宰治の魅力はストーリーの面白さで、言っちゃ悪いけど、
「あんま堅苦しい文章は頭悪いから読めないけど、文学っぽいものは大好きです!」
的な読者層が「これが文学か……(ガクガクブルブル」と感動するものであり、
経済学部の一年生が「金融日記」とか池田信夫とか読んで、
「これが経済学か……(ガクガクブルブル」という位置とちょうど同じ。

ただ僕の好みではないけども、
「読みやすい文章を書く」ということに関しては素晴らしいものがあって、
村上春樹はある意味では太宰治の正当な継承者かもしれない。
意味がすらすら頭の中に入ってくる、明瞭な口語体は、
単に「馬鹿が好みそうだな」と軽蔑してるだけではいけない。

文豪のなかで今の割かし太宰治は読まれてるときくけれど、やっぱこの文章じゃないかな原因は。

あれは、十二年前の冬だった。
「あなたは、更級日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方が無い」
 そう言って、私から離れて行ったお友達。あのお友達に、あの時、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
 ニコライ堂の見える橋の上だった。
「なぜ? どうして?」
 そのお友達は、私よりさらに一寸くらい背が高くて、語学がとてもよく出来て、赤いベレー帽がよく似合って、お顔もジョコンダみたいだという評判の、美しいひとだった。
「表紙の色が、いやだったの」
「へんなひと。そうじゃないんでしょう? 本当は、私をこわくなったのでしょう?」
「こわかないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
「そう」
 と淋しそうに言い、それから、私を更級日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、ときめてしまった。
私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下していた。
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン
 と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを軽く抱いた。
 私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
 と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
 それっきり、そのお友達と逢わない。同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、学校がちがっていたのである。
 あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。

この辺りはいいんだけど。

構成自体は上手いんだろうけど、そもそも貴族の高貴さを書くのに失敗してるから、
あんまし没落貴族って感じがしなくて、むしろ自分を上流階級だと勘違いしている田舎娘にしか見えない。

斜陽