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四十三庵

蔀の雑記帳

「もしドラ」と「うすらバカの時代」

論考

「ぼくたちは知識レベルをひどく下げられた時代を生きているんだよ。すべてのメディアが、ニュース・メディア、音楽、音楽誌における情報の提示の仕方は、受け手がただのうすらバカであるという前提に立っているんだね」
モリッシー、現代とは人々が薄らバカであることを前提とする時代だと語る

モリッシー……イギリスのバンド「The smiths」の元ボーカル。
        「仕事探して、仕事が見つかった。僕は哀れな男だ」
        「もし二階建てのバスが僕らの車に突っ込んで君の隣で死ねるなら最高だ」
        などという歌詞を書いた、エキセントリックな人物として知られる。
        ソロ活動はあまり上手くいっていない。

もしドラ*1を読んだ。
知っての通り、この本はP・ドラッカー著「マネジメント」に則って、
野球部のマネージャーが、どこにでもいる一回戦負けの野球部を甲子園に導くという話。

アニメ化もされていて、NHKが放送してたが、あまりのクソアニメ臭のせいで、
直視することができず、ブックオフで500円まで値下がりしていた所をようやく買った次第である。
結論から言うと、読んだ方がアニメ見るよりはやかった。
1時間ほどで読めた。
批判点はいくつかあって、まとまらないかもしれないが、まあ箇条書きにしていくことにする。
一から十まで批判してもしょうがないので、ストーリーに関しては、
「所詮ラノベだし、あんなもんだろう」
「期待しないで読めば結構面白いし感動できる」
のではないかと言っておく。

ドラッカーという人物そのものを、僕はあまり評価していない。
経済学では当然ドの字も出てこないし、経営学でもおそらくは登場頻度は低い。*2
学術的評価は皆無だろう。
もちろん学術的には価値がなくても、現実的には価値があるものというのは、多数あるが、
ドラッカーはそういうものではない。

ドラッカーというのは、「自己啓発本のクラシック」であって、まともな経営者の読みものではない。

もしドラ」が受けたのは、ペラペラの野球ストーリーに、
ドラッカーという知的援護がついているからだろうと思う。
ドラッカーの抽象的な文言を引用して、それを野球に応用して、
見事にハマってくというのが、面白いといえば面白いのだろう。

しかし、なんていうか、この本を読んで、
「仕事で行き詰ってるときに、これを読んだら発見がありそう」
なんていってる上司の部下というのは、本当にかわいそうだと思う。
そいつが経営者だったら、その会社は悲劇以外のなにものでもない。

僕は楽天イーグルスが二位になった年を知っている。
あの時の楽天は、他球団では試合に出れないような、
一芸が光るけど、欠点の多い選手が上手くハマって、見事に勝っていく試合が多かった。
野村監督の球団運営は、「負ける理由」を潰していくやり方で、投手、守備の整備に最大の力を注いだ。
ドラフトではピッチャーをとりまくった。
おかげで打線がつながって、得点が入ると勝てるようになった。
もしドラ」で言う、「従業員のよい所を引き出す」というふうな話だろう。
岩隈・田中という球界を代表するピッチャーが目立つが、
不良外人(リンデン)とか、戦力外のベテラン元HR王(山崎)とか、社会人野球の星(草野)とか、中日の万年二軍(鉄平)とか、
その辺りの活躍が、2009年の躍進につながった。
そんな楽天だが、クライマックシリーズで、ソフトバンクに快勝した後、
日ハムにあっさり二連敗して、シーズンを終えた。

それが勝負の世界だと僕は思う。
結局最後の最後で、頂点に達するチームになれるかなれないかというところで、一番地力が出るのだ。
もちろん「もしドラ」のあのラノベストーリーのなかに、そんなリアリティは求めていない。
しかし重要なのは、経営の世界は野球の勝負とは全然違う、ということだ。
極端な話、ビジネスは勝たなくていいのである。
事業が存続していけばそれでいいのであり、赤字を出さなければ、それでいい。
つまりビジネスは「負けなければいい」のである。
別に三菱UFJとみずほと三井住友銀行が、みつどもえで争って、
残った勝者が全ての富と栄光を手にする、というゲームをやっているのではないのだ。
現に三つのメガバンクは互いに併存している。
三社とも利益を出すことが、ビジネスの場合は可能なのだ。

  • 絶賛されていることについて

もしドラ」は各種メディアで絶賛されていた。
というかむしろ「もしドラ」という本自体が、メタ的にマーケティング対象になっていたようにも思われる。

上の二つの点の批判は、別に大した話じゃなくて、無視してもいい。
ここが一番大切な論点だと思う。

「『もしドラ』は、ベストセラーにのぼるほど、読まれた。そして少なからぬ読者に、感動と衝撃を与えた」

ここ。
僕が一番衝撃を受けたのは、まさにこの事実。

まさにモリッシーの言う、「うすらバカの時代」ではないか。

はてな民なんかその典型だと思うが、
現代に至っても、人間は「知的に見られること」を望んでいる。
恐らく実際知的な人間になりたいと、心から思っているのだろう。
しかしでは何をするかといえば、自分の理解出来ない本に挑戦するではない。
「自分が理解できるくらいにすりつぶされた知識の残骸」を、
死にかけの年寄りが流動食をすするようにして、吸収する。
彼らは勉強したいのではない。
勉強した気になりたいのである。

一般大衆のニーズは、「難しそうなこと」にあるのであって、「難しいこと」であってはならない。
知識であってはいけない。「知識らしきもの」でなければいけない。
池上彰の不自然なほどの流行も、池上彰が「知識をすりつぶす」役割を演じていたからだろう。
今日もすりつぶされたブログ記事に大量のはてブがつく。

そして彼らは口々に言うだろう。

「人が読んでわかりやすい文章を書く人が、本当に頭のいい人なんだ」

なるほど、「もしドラ」はベストセラーになるべくしてなった傑作であった。

  • さらに

学園紛争の時代というのは、大学が大衆化して、それまでエリート階級だけの教育機関であった大学が、
ひろく庶民の通うところとなり、知的・文化的に学問や大学の教養主義についていけない学生が増加したことによる、
一種の大規模な数の適応障害なんじゃないか、と思っている。
学園紛争の時代は、経済学部の学生に限らず、どいつもこいつもマルクスを読んでたらしいけれども、
大半の学生、というかむしろ九割以上の人間が、マルクスなんぞ理解できなかったはずだ。
教養主義に風穴を開ける」「階級の打破」などと謳っておきながら、
資本論」を携えていたのは、新たな教養主義の芽生え以外のなにものでもないと思うけれども、
しかし他に頼るものがない以上、已むを得なかったのだろう。
戦後の急速な所得向上により、大半の学生は、自分の親たちよりも高収入・高学歴になったはずだ。
頼るものなど、マルクス以外になかったはずだ。

ドラッカーも、現代のマルクスとしての役割が求められていたのかもしれない。

  • 念のため

こういうことを書くと、「そういうお前はどれだけ頭がいいんだ」という不毛な話になるけども、
そんな話はしても仕方がないし、自分自身の知的コンプレックスの裏返しになってしまうので、やめましょう。ね?

*1:もう既にこの響き自体過去のものとなりつつある訳ですが

*2:少なくとも僕の読んだ新世社が出してる「経営学」「マーケティング」には登場しなかったように記憶している