四十三庵

蔀の雑記帳

価値相対化の限界

帝国主義的世界観や、文明/野蛮という二分法が、
第二次世界大戦を起こす思想的裏付けになったのだ、ということで、
戦後六十年は日本だけでなくヨーロッパなどでも左派が台頭して、思想界では「価値相対化」は基本原則のようになった。

「まともな人」或いは「まともな発言」であれば、当然この価値相対化は根底に流れている。
サブカルチャーの中でさえ、当然のように価値相対化を受け入れている。
たとえばミスチル「掌」の歌詞。

ひとつにならなくていいよ
認め合うことができればさ
もちろん投げやりじゃなくて
認め合うことができるから
ひとつにならなくていいよ
価値観も 理念も 宗教もさ
ひとつにならなくていいよ
認め合うことができるから
それで素晴らしい

こんな歌詞書くから櫻井和寿は一部では「説教臭い」と言われる訳だけども。

戦後60年以上たって、ポップスでこんな歌詞が書かれる程度には、
価値相対化は普及した訳なんだけども、しかし限界も見えてきているように思う。

とりわけ二つの思想が衝突するような状況が顕在化したときに、
価値相対化がいかに何の解決策にもならないかは、度々見てきたであろう。
原発推進派と反原発派は、恐らく互いに話が通じないし、
かりに「掌」よろしく「認め合おう」とじっくり話し合ったところで、
結論段階で合意に至るには、どちらかが折れなければいけない。

二十一世紀は価値相対化の限界が至る所であらわれてくるであろうし、現に今そのきざしがあらわれている。