四十三庵

蔀の雑記帳

大学は就職予備校だった

和民の正社員が100時間以上残業させられて自殺したのが、労災認定を受けたニュースが話題になっている。
立場は二つに大別できて、
「自己責任派」と「和民批難派」の二つに分けられる。
「自己責任派」は、「和民も悪いけど、別に職は他にもあるんだから、死ぬぐらいなら辞めろや」という立場。
「和民批難派」は、「和民が全部悪い」という立場で、
自己責任論には「職は他にもあるとはいえ、研修段階で洗脳に近い状態になっているし、
この不景気のなか、和民で働く社員が転職することは難しいから、自殺した社員にそういう選択肢はそもそもなかった」という考え。

どっちが正しいというよりは、どっちもそれなりに理があると僕は思ってる。

  • 「真面目に生きてきた人間が報われる」時代のおわり

どうも日本人は真面目に生きてきた人間が、今回のように「報われない」事態になることが感情的に受け入れがたいらしい。
特に悪いこともせず、学校にも真面目に通って、
高校だか大学だか短大だか専門学校だかを卒業して、就職して、
「サラリーマン」として働いて、いい異性を見つけて結婚して……
そういう運命は「当然得られるもの」であった。
むしろ90年代前後の若者の胸にあったのは、そういう「平凡な人生」への忌避・嫌悪だった。
そりゃ、まあ、そうで、当時の失業率なんていうのは2〜3%であって、仕事がないのは、
本当にごく一部の、アルコール中毒者だとか、前科持ちだとか、そういう「真面目に生きてこなかった」人間だった。

そういう社会がなんで担保されてたかというと、安定した経済成長と、
なにより労働市場は今よりずっと閉鎖的で、ドメスティックに設計されていた。
製造業は地方に国内工場山ほど持ってて、土木工事はあちこちで行われていて、
しかも非正規雇用(派遣・請負)という形態はあまり使われていなかった。
今から見ればクソみたいな仕事でも、いちいち正社員とってやらせていた。
それを誰も不思議だと思わなかった。
日本経済全体でどちらかと言えば金は余っていて、その程度の「浪費」は安いものだった。
正社員じゃなくても出来た仕事を正社員としてやっていた「サラリーマン」たちは、
1つのarbitrageというか、なんと言ったらいいのか、ズル儲けみたいなことをやっていた。
しかしズル儲けというのは、長期的に見ると消えてしまうものである。

1990年から続く「失われた20年」の中で、それらの「浪費」は真っ先にコストカットの対象となった。
地方工場は海外移転され、現地生産方式をとるようになった。
国内工場は残っていたとしても、派遣社員*1や請負社員を使うようになった。
ちょっとした事務作業やビルの受付なんかも、ほとんど派遣にやらせている。
土木工事は、昔であれば「ガテン」という雑誌に山ほど土木の求人が出てたのに、
その「ガテン」が廃刊になるくらいに、工事数が減少した。

20年前であれば、建設業や製造業に流れていた、
「真面目に生きていた人々」が、外食小売に相当数流れている。
和民にせよ、餃子の王将にせよ、「ブラック」であることは知れ渡っているが、
それでも職があるだけマシ、と思っている「真面目」な人々が流れるのだろう。
「こんなブラックやってられっか」と思う不真面目だけど常識的な感覚を持った人々は、フリーターになるか、ニートになるか。
「不真面目な人々」には容赦無い罵倒・軽蔑が浴びせられる。
「真面目な人々」には、「正社員」という名誉が保障される。
もっともその名誉を得るかわりに、払う犠牲はあまりに大きすぎる気もする。
(参考動画)

  • 日本人であることの価値下落

昨今の状況を見ると、僕は「日本人である」ことの価値が下がってるのだと感じる。
90年代以前の日本であれば、それはもう「日本人である」ことの価値は素晴らしかった。
あまりに素晴らしかったので、日本人は素晴らしい謙譲の美徳を発揮して、
「ホント日本人って島国根性っていうかさ〜ネチネチして陰湿だよな〜」
「こんな制度があるの、日本ぐらいですよ。欧米では〜」
と、卑下し続けた。
表面的には卑下しながらも、「Japan as No.1」みたいな本を読んでは、内心では自尊心をくすぐられた。
バブル期の若者は、右傾化というか、
かる〜い感じの「やっぱ自分の国が好きって、大切なことだと思うんスよね!」的な愛国心を持った人物が多い。*2
そのアンビバレント(両義的)な心情は、日本人特有の「幸福の噛み締め方」であったに違いない。

現代ではもっと「日本人であること」は複雑に受け止められている。
確実にその価値は下落している。
内心では「日本が一番!」と思いながら口だけ「日本ってダメだよね〜」などと言っていた余裕はもうなくなってしまった。
日本人であることの価値下落に対して、人々の反応は二つの方向にわかれる。
極端な日本賛美に走るか、極端な日本卑下に走るか。
右傾化するか、左傾化するかと言ってもいい。

日本賛美の方向としては、三橋貴明だの竹田恒泰だの、「ネトウヨ」と呼ばれるような人々が登場した。
竹田恒泰の著書「
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」は、バブル期だったら多分売れてないだろう。

日本卑下の方向だと、新聞・テレビなどのマスコミはどっちかというとそういう方向で書いている。
日本のあらゆる制度が破綻して、少子高齢化が進んで年金は破綻し、
国家財政は破綻して、グローバル化の遅れから企業は倒産しまくる、みたいな。

  • 就職予備校としての大学

終戦とともに、「団塊の世代」は学校に通いだした。
北野武の「菊次郎とさき」なんか読めばわかりやすいと思うけど、
当時の貧しかった親世代にとって、子供を学校に通わせることは、
大学まで行かせるとなるとかなりの負担だったけれど、「立身出世のため」になんとか学費を工面して子供を学校へ通わせた。
「学問のため」でも「知的好奇心を満たすため」でもない。
昭和中期(終戦〜高度経済成長)において、学校は「いい職業」に就くための踏み台でしかなかった。
それが昭和後期から平成になると、「労働」はさほど切実な問題ではなくなった。
高度経済成長の恩恵で、かつてマルクス主義者たちが当然のように想定していた、
「辛くて苦しい」暗い労働のイメージはすっかり消えてしまった。

高校・大学は何となく入学して、卒業すれば、何となく就職が出来ているという風な、
平坦なベルトコンベアの1つの通過点でしかなくなった。
通過点に本質的な意味なんて存在しない。
そこで、人間はまた学校に対して別の色々な意味を考えるようになった。
「頭をよくするため」
「学問を身につけるため」
「大学での浅く広い人間関係を学んで、『空気を読む』力を身につけるため」
などなど。

明治みたいな就職支援の手厚い私立大学は、よく「就職予備校」と揶揄される。
「大学は学問をやるところである」という建前を、学者でもないくせに信奉している教徒たちにとっては嘆かわしい事態であるようだ。
僕もこう見えても「真面目な人間」であるから、受験のときは割かし本気で「学問をやろう」と思っている受験生だった。

しかしね、歴史上どの時代を見たって、学問なんていうのは、庶民にとっては「立身出世」の種でしかなかった。
大学の就職予備校化というのは、歴史的に極めて自然な姿で、高度経済成長期に培われた日本の文化が異常なだけである。
これを「堕落」と見る日本人が多いが、僕はそう思わない。
これは昭和中期への「回帰」なのだ。

この記事の主張が気に入らない日本人は多いと思う。
しかしそれもまた知らぬ間に植えつけられた歴史的に異常な常識から産まれる感情でしかない。(了)

*1:工場で働く派遣というと秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大を思い出す

*2:バブル期の若者って今はもう若者じゃないけど