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四十三庵

蔀の雑記帳

就活によせて

論考 就活
  • 進路

近況を話すと、一次面接で悉く敗退して、後四社しか駒が残っていない。
特に第一志望だったエネルギー関連の会社がもうダメで、僕の就活は失敗した。
もう駒を増やすつもりはなく、残りの会社がダメだったら、教員採用試験を受けて、新卒で教師になる道を歩もうと思う。
もともとサラリーマンがやりたくなくて、教員免許をとろうと高校生の頃に考えたのだった。
それでも経済学部に入ったのは、自分があまりに人文的な人間で、経済学を通してその浮世離れした考えが是正できればと思っていたからだ。

経済学は案外自分にあっていて、選択したことは悔いていない。
経済を色々知るうちに、サラリーマンという固定観念が単にバブルの頃の価値観の産物でしかないことに気づいた。
特に勤め人にも色々いて、選択肢によってはかなり高い給料がもらえ、仕事も面白いことを知り、
じゃあ就職してみて、合わなかったら教員に行こうか、と考えるようになった。

まあ、しかし、このザマである。

教師だってこのご時世簡単になれるものではない。
教採受からなくて時間講師でやっている教師だっていっぱいいる。
見切りをつけるなら早めにしなければならない。

  • 過大評価

普段ブログでは大上段から、世の中や経済についてああだこうだと述べてきたが、
いざ自分がこういう状況になってみると、まったく社会というものはクソだと改めて実感した。
大企業に入って女にモテたいとか、ばりばり仕事してばりばり出世していくとか、そういう妄想を抱いた。
しかし結局僕はもう21歳で、それまでの歳月でもうほとんどルートは決められていたのだった。
教室の隅の方で燻っていた人間が、就職をへて、突如社会の中心に躍り出るということはないのだ。

自分をovervalueしていたのを感じずにはおれない。
自分がしたいことを今まで選んできた。
今は社会から、自分が何をできるか或いはできそうかを測られている。
今まで僕がやってきたことはその場その場でやりたいことを優先してきただけだ。
飽き性で、一つのことを長く続けることがなかった。
別に就職活動の面接のために人生設計してきた訳ではない。
しかし世の中の大多数は、そうではなくて、「自分の売り」を何か一つはつくって、伸ばしてきたのだ。
人から認められるためだったり、友達つくるために、彼女つくるために。

僕にそんなものはない。
そもそも、「他人」というものに、根本的に興味がないのかもしれない。

僕は勉強もスポーツも、人並みにはできた。
だからさほどその二つでコンプレックスを抱いたことはない。
けれど人間関係が一番の悩みだった。
数学も英語も、集中してとりくんだら何とかなった。
人間関係はどうにもならなかった。

中学の頃から、あまり人と話さなくなった。
小学生の頃は人を笑わしたりするのがすきだったが、中学になるとそれがくだらないことに思えた。
他人に価値を認めてなかったし、無論自分の価値も認めてなかった。
高校では友達をつくろうと思って入学した。
けれど入学して三日ぐらい、誰も話しかけてくれなかったのをよく覚えている。
今考えると、あれは自分から話しかけなければいけなかった。
しかも話しかけるなら、なにか話すためのネタを普段からストックしておくべきだった。
そういう「当たり前」のことを周囲の人間はやっていた。

大学では、そういう自分を変えようと思っていた。
受験で僕は少なからぬ克己心を育てていた。
国語しかできなかった状況から、経済学部に入るため、英語と数学をぐんぐん伸ばして、現役でいまの大学に入れた。
同じ事を人間関係でもやろうと思っていた。
しかしダメだった。
中高で染み付いたものは簡単にとれないのだ。
話しかけても会話が続かないし、話しかけられても上手く返せないことが多かった。
今思えば、声の出し方とか、見た目とか、そういう所から変えなければいけなかった。

自分の積み重ねたもののなさに打ち震えるばかりである。

  • 小説

小説を書きたい、と思っていた。
就職活動が厳しくなればなるほど、現実逃避の手段として、小説で一山あてるという妄想は甘美に思えた。
しかしもう自分の文才は壊死してしまっているのを、強く実感せずにはいられない。
昔は文章が溢れるように浮かんだ。
浮かぶままに書き散らしていたから、到底それは価値を持った文章ではない。
思いつくままに書いたことがありありとわかる、未整理で主観的な乱文。
それをただすために、大学に入ってからは極力そういう文を書くことを避けてきた。
そのことが間違っていたとは思わない。
その取り組みが、僕の文章を無味乾燥でつまらないものに変えてしまった。
「文章が論理的」と言われるほど、僕にとって忸怩たる思いがする褒め言葉もなかった。

教師になれば、愈々なにか「一山あてる」という楽しみはなくなっていくと思う。
同世代との交流はほとんどなくなって、十代の未熟な少年少女を相手にする日々。
安いアパートを借りるか、最悪実家から学校へ通って、授業をして、事務作業をすまし、部活の顧問をして、という日々になるだろう。
そのなかでやりがいを見出すこともできるだろうけれど、はたして自分に何か成長があるかは疑問だ。
一番僕が教師になる上で障害だと思っているのが、クラスにいる「僕ができなかったこと」をやっている生徒だ。
彼らは、頭はどうだか知らないが、人間的には余程僕よりも格上だ。
そういう人間に、僕が何を指導しろというのだ。

もともと高校時代にイメージしていたのは、教師をやる傍ら小説をしこしこ書いて、いつか受賞して……というふうなイメージでいた。
しかしなんだか自分自身の才能は疑わしくなってきた。
どこで自分が凡人であると気づくかが、人生をわけることになると思う。
僕は今まで自分を懸命に凡人だと思い込もうとしてきた。
普通の人間になろうと努めてきた。
しかしその根底にあったのは、自分の文才への絶対的な信頼だった。
誰よりも文学的な小説が書けることが、卑屈を装った僕の、密やかなプライドだった。
だから僕は自分が凡人であると、腹から信じていたわけではなかったのだ。
いつか小説を受賞させて、「ほら見ろ」と言ってやりたかった。
「俺はお前らとは違うんだ」「友達ができないのはお前らのレベルが低かったんだ」と。
しかしいくつか小説を送ってみて、箸にも棒にもかからない経験をへるたびに、自分の文才も疑わしくなった。
大体今日日、純文学なんて流行らないのだ。

就活に失敗しても、「小説で一山あてるぞ」と血眼になるような情熱が湧かない。
むしろ就活で失敗したからこそ、小説への情熱も薄れてしまった気がする。
21歳にして、はじめて自分が凡人であるという事実を、腹から認めるに至った訳だ。

とにかく年をとりすぎたのだ。

  • 人間関係

最近親を違う視点で見ている。
父親は人付き合いが嫌いで、ほとんど友達もいない。
母親は人付き合いは好きだが、魯鈍なところがあるので、自分から積極的に集団を引っ張っていくタイプではない。

家庭環境がいかに子供に影響を与えるかを感じている。
仮に僕がこのまま結婚して子供つくったとしても、似たようなことが起きるだろう。
文化資本の継承は、コミュニケーション能力においても生じる。
結局このことが社会に出る際に効いてきて、所得格差に結びつく。
無論世代交代のなかで、凋落するエリート階級、出世する底辺階級は存在するだろうが、マジョリティではないはずだ。