四十三庵

蔀の雑記帳

「寝ながら学べる構造主義」内田樹

内田樹というとネット上では的外れな発言を結構してるので、評価が低いけれど、この本はよかった。

僕は現代思想あんまり詳しくないので、構造主義とかレヴィ=ストロースとか名前だけは知ってたけど、
結局それが何を示しているのかよくわかっていなかったんだけど、この本で概要はつかめた。

構造主義とはなんぞや、というと、Wikipediaによれば、

広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す言葉である。

ということなんだけど、まあわかったような、わからないような説明である。

  • 要約

構造主義前史
構造主義という思想が出てくる前に、その下地として、

マルクス
フロイト
ニーチェ

という三人の思想が、さらっと第一章で説明される。
この三人の記述まで書くと、記事が長くなってしまうので省くけど、ためになったので、是非本で読んで頂けたらと思う。

ソシュールの思想
構造主義の始祖はソシュールという言語学者であると言われている。(異説アリ)
彼が指摘したのは、モノに対して名前をつけている、という我々の常識が間違っているということだった。

ソシュールの考えに従えば、

名前がつけられた後に、モノが存在する

ということになる。
この考えははじめて聞いた人には受け入れがたいだろう。
たとえば部屋にある「椅子」という物体は、仮に椅子という名前がなくても、それは「座るためのモノ」として存在するのでは?
と素朴に考えるはずだ。

ところがそうではない。
この「人間が名前をつける前からモノは存在した」という考えに従うと、矛盾が出てしまう場面がある。
たとえば英語で羊と羊肉は、Sheepとmuttonという単語で区別される。
フランス語ではこの区別がなく、羊の肉もmoutonと呼ぶそうだ。
もし仮に、「名付けられる前からモノは存在した」のであれば、「羊」と「羊肉」は別々に存在したはずだ。
ではなぜフランス語には「羊肉」に名前がないのであろうか?
名付けられる前から羊と羊肉が存在するのであれば、フランス語ではなぜその異なったモノに同じ名前がついているのか?

人間があらかじめ存在する「モノ」に対して名前をつけているのであるとすれば、言語が異なってもそれに一対一で対応する言葉が存在するはずである。

ということは、「名前」と「存在」の関係は、「名前」をつけることで、はじめて「モノ」に「存在」を与えることができるという関係なのだ。

言語というのは、無秩序な世界を、ナイフである形に切り取るようなものである。
人間は名前のないモノを存在していると知覚することは出来ない。
思考というのも、言語に依存している。
日本語で思考している以上、日本という国の歴史から無縁であることはできない。


さて、この思想がなぜ構造主義につながるのか?
それは、この言語に関する思想を押し広めてゆくと、
自分が考えて話しているつもりの言葉も、実は自分の外からインプットした言葉を繰り返しているに過ぎないという事実が明らかになる。
それが、西洋思想が自覚的あるいは無自覚に前提としていた、「私」を中心とした思想を、根底から揺るがすことになる。
なぜなら「我思う故に我あり」という言葉も、その「我思う」が、実は他人の受け売りを右から左に流しているだけで、純粋な意味での「私」の意見ではないからだ。

構造主義四銃士
さて、このソシュールが西洋哲学の前提を大きく揺れ動かした後に、構造主義は様々に発展していく
フーコー、バルト、レヴィ=ストロースラカンという四人の思想家が、本著では紹介されている。
四人ともそれだけで研究していくと一生かかってもできないような、大思想家なのだけども、
内田樹のあとがきから抜粋すると、

レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」といっており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」といっており、ラカンは「大人になれよ」といっており、フーコーは「私は馬鹿が嫌いだ」と言っているのでした。

という風にざっくり方向性だけつかむことはできる。

このブログ記事では、バルトとレヴィ=ストロースだけ紹介することにする。
(バルトはあっさり書く)

◯バルトの思想
バルトの思想はソシュールを進化させてような感じ。
バルトは「記号学」という分野を成立させた。

言葉には、ラング、スティル、エクリチュールという三つの不可視の規則がある。
ラング→国語
スティル→言語感覚(個人的好み)
エクリチュール→言葉遣いの選択(社会的好み)

エクリチュールと無縁である」という意味で、純粋な言葉は存在しない。

レヴィ=ストロースの思想
実存主義レヴィ=ストロース
レヴィ=ストロースの著書「野生の思考」は、サルトル実存主義を打ち砕いた。
実存主義の思想は、「実存は本質に先行する」という一言で表される。
つまり本質をどう認識していても、実存(実際の行動)が示す本質が真実である、という考え方だ。
陽明学知行合一に似ているような気もしないでもないけど、ちょっと違うっぽい。
正しい行動をしている人間が、正しい本質を持っている、というのが実存主義
サルトルによれば、どんな状況に投げ込まれても、正しい行動・決断をできることが重要であり、
歴史の法則性によって、その正しさは推し量られる。
これはこれで一世を風靡した思想である。

けれど、レヴィ=ストロースの考えは違う。
「歴史を持たない少数民族」のような存在を考えると、彼らは先祖のやってきた習慣を延々と繰り返すだけである。
歴史の法則性に則って、正しい決断をし続けることを重視する実存主義は、その文明では成立しない。

野蛮な民族ほど独自のものさしを持って、自分たちと他民族を区別する。
サルトル実存主義でさえも、同じ事をやっているではないか!
サルトルの哲学は普遍性を欠いている。
というのがレヴィ=ストロースサルトルに加えた批判。

・人間社会が成立するのに必要な要素
では普遍的な社会の真理・性質とは何なのか。
レヴィ=ストロースは、どんな時代・場所であるにも関わらず成立する、
人間が他者と共生してゆくため、

人間社会は同じ状況にあり続けることができない
自分が欲するものは、まず他者に与えなければならない

という二つのルールを守ることが必要であると考えた。
なぜ、人間がこのようなルールに従うようになったのかはわからない。
けれど、このルールに従った人間社会だけが存続していることを考えると、人類は先祖のどこかでこのルールを採択したようだ。

どの民族を調べても、家族集団は次のどちらかの選択肢を選ぶ、という不思議な法則を発見した。

1.夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠である
2.妻はその兄弟と親密だが、夫婦は疎遠である。

1.父と息子は親密だが、甥と母方の叔父さんは疎遠である。
2.甥と母方の叔父さんは親密だが、父と息子は疎遠である。

「兄弟、姉妹、父親、息子」
レヴィ=ストロースはこれが、親族の基本単位だと考えた。
なぜこのような基本単位が世界中すべての場所に観察されるのか、というと、

近親相姦の禁止のため

であると考えられる。

なぜ人間は近親相姦を禁止したのか?
この問いにレヴィ=ストロースは意外な答えを持ち出す。
女を交換するためである、と。

レヴィ=ストロースの思想では、人間は三つの水準でコミュニケーションをとる。

財貨サービスの交換
メッセージの交換
女の交換

この女の交換を、レヴィ=ストロースは面白い表現で書いている。

近親相姦の禁止とは、言い換えれば、人間社会において、男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない、ということである。

女の交換は「贈与」である。
そして男Aから「贈与」された女をめとった男Bは、またその娘や姉妹を男Cに「贈与」する。
一対一の「返礼」ではなく、返礼の対象がAからCになっている。
人間文化にこの「贈与」が与える影響は大きい。

レヴィ=ストロースは社会システムは常に変化を要請していると考えた。
けれどその変化は、何もラディカルなものである必要はない。
この「女の交換」がもたらす、贈与と返礼の世代を超えて延々と続くサイクルが、社会システムの変化をもたらす。
これによって、人間が他者と共生してゆくため二つのルール、

人間社会は同じ状況にあり続けることができない(社会レベル)
自分が欲するものは、まず他者に与えなければならない(個人レベル)

が達成される。

「構造」で社会システムや言語システムを捉えるっていうのは、こういうことなのかーという感じなんだけども、
たとえば「ほんとうの意味で私がオリジナルな主張をすることができない」っていう思想は、
すげー身も蓋もなくて、正しいんだろうけども、その思想をもとにして行動するとしたら、ニヒリズムに陥るしかないのではないかなと思った。

実存主義構造主義によって論破されてしまったけれど、ヨーロッパで生きてゆく分には実存主義を信奉してた方が、社会にいい影響与えてくれそうな気がする。
構造主義という思想が、イデオロギーを骨抜きにしてしまう効果がある。
言うなれば究極の揚げ足とりみたいなもんじゃないかと感じた。
構造主義に基づいた主張が、普遍的真理で批判できないのは事実なんだけど、
あらゆる方向から批判できない主張が持つ、煮え切らなさ・迂遠さを産むんじゃないかな。
あくまで構造主義っていうのはメタ解釈でしかないから、「批判できない」主張はできるけど、人に道を指し示すことが出来ない。

 
(了)