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四十三庵

蔀の雑記帳

まず、時間をかければいいものができるという発想を捨てよ

時間と成果物のクオリティは比例しない。
まず、我々はそれを認識しなければならない。

  • 時間をかければいいものができるのは当たり前

時間をかければいいものができる、というのは、大人になれば当然のことだ。
大学の勉強でも、100時間かけてじっくり書いたレポートの方が、2時間で突貫で書いたレポートよりもいいに決まってる。
まだ社会人ではないけれども、仕事もそうだと想像する。
「時間さえかければできるのに…」ということはいっぱいあるだろう。
けれども時間的制約の中で、「◯時間でこれぐらいのクオリティで完成させよう」という割り切りが必要になるのではないか。

  • 時間をかけなくてもいいものができないか

僕は60%のクオリティに到達するスピードが人よりも早い子供だった。
読書感想文を仕上げるとか、スキーに挑戦するとか、水泳の新しい泳ぎとか、飲み込みは早かった。
ただそこから他人と比べて、格段にすごいと呼ばれるレベルに到達する辺りで、いつも人に追い抜かれた。

ずっとそれじゃダメだなあと思って、自分なりに何か一つのことに打ち込もうと努力してきた。
なかなか100%のクオリティに到達することはなかった。
何かを自分で満足行くまでやり遂げた経験が一つもない。

けれど、大学に入ってから、僕は100点をとれる人間ではないという思いが更に強くなっていった。
そして、その必要もないような気がしてきた。
岩瀬大輔の「入社1年間の教科書」の、仕事をする上での原則に、次のようなものがある。

50点で構わないから早く出せ


クオリティとスピードのトレードオフの中で、100点をとれる人間は、クオリティに強みがある。
けれど僕のような人間は、100点を狙うよりも、スピードで人と勝負していったほうがよい。

「50点」というところに意味がある。
いくらスピードが早くても、「0点」のものを持っていくのではダメだ。
「50点」のものを、最速で持っていけるから価値がある。

  • まず、時間をかければいいものができるという発想を捨てよ

時間をかければいいものができる、というのはそもそも絶対的法則ではない。
時間をかけたが、成果と比例しないことも往々にしてある。
なぜそんな最悪の結果になるかというと、時間をかけた結果、枝葉末節にとらわれたからだと思う。

時間がギリギリのとき、人間は必要度の高いものから手をつけていく。
その結果、たとえ時間が足らなかったとしても、重要な部分だけはきっちりしている。
時間に余裕があると、逆のことが起こる。
あれもこれもできるので、必要度の低いものに時間をかけてしまう。
確かに100点のものを作るためには、ディティールにこだわる必要がある。
けれどいくら時間に余裕があっても、限界がある。
人間には24時間しか与えられていないのだから。
その結果、肝心の部分が甘く、細部だけが立派、という残念な結果が起こる。

  • ブログの記事もそうだと思う

ブログのアクセス数も、記事を書く時間とアクセス数は比例しない。
死ぬほど調べて、死ぬほど推敲して書いた記事が全然アクセス伸びず、
どうでもいいと思ってテキトーに書いた記事がモリモリアクセスを伸ばすことはよくあることだ。

日本人は時間をかけないで成果物を出すと「手抜き」と見る風潮がある。
僕も日本人なので、その感覚に長年苦しめられていた。
しかし、結果を見よう。
成果の出ない努力は徒労でしかない。

そういうわけで、今年のブログの目標は更新にかける時間を一時間以内にする、ということにした。
些細なことではあるけれど、こういうところから「50点でも早く出せる」人間になってゆこうと思う。
(了)