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四十三庵

蔀の雑記帳

先進国と途上国では命の価値が違う

論考

発展途上国、あるいは昔の日本もそうだったと思うんだけども、「人が死ぬ」ということは、
現代日本の感覚よりも、ずっとありふれたものであるらしい。

1)衛生環境が悪く、病気が流行りやすい
2)栄養状態が悪くて抵抗力がない
3)医療が整っておらず、医者がいない
4)所得が低いので、医療に金がかけられない
5)政府の健康保険制度が整備されていない
6)警察が腐敗していて、治安が悪い
7)人口が多いので、人が一人死んでも気づかれづらい
8)所得が低く、明日の生活のために強盗や殺人が多い
……

パッと思い浮かぶ理由を列挙してみたけれども、まだまだあるかもしれない。
途上国の一人の人間と、先進国の一人の人間の命の価値が同じだとは、僕には思えない。
道徳的に考えて、「人間の命の価値が違う」というのは受け入れがたい。
人の命は平等であるべきだけども、現実として先進国と途上国では命の価値が異なっている。
発展途上国に行くときに日本人が感じる漠然とした恐怖心は、
銃の所持が認められているとか、治安が悪いとかいう具体的な問題に起因しているというよりは、
「命の価値が低い国に行き、自分の生命の価値がディスカウントされる」ような感覚があるためではないだろうか。

以前中国人に、
「中国って怖いなー。治安とかどうなの?」
と色々聞いていたら、
「日本人、怖い怖いっていうけども、現地行ったらそこで生活してる人が居るわけで、そんなに毎日殺人事件や強盗が起こってる訳じゃないですヨ」
と至極ごもっともなことを言われたのを覚えている。

  • 人間の価値とは

僕は人間の価値は二分して考えるべきだと思っている。
つまり、

1.個人的価値
2.社会的価値

の二つにわける。

個人的価値というのは、その人間固有の価値である。
その人間の、キャラクターや行動、言動、容姿などなどがもたらす価値だ。

社会的価値というのは、その人間の社会的役割から来る価値。
会社の社長が死んでしまえば、明日から会社の経営に大きな支障が出る。

このような二分法に従って考えると、
「人間としてはクズで友達にもなりたくないけれど、優秀な弁護士」のような、
リーガル・ハイ」の古美門研介みたいな人物は、
個人的価値はゼロないしマイナスだけれども、社会的価値はすごく高い、ということになる。

  • 命の価値の違いがもたらすコミュニケーションの違い

さて、先進国では命の価値が重い。
そのことがコミュニケーションにも影響を与えているのではないかと考えている。

途上国の人間のコミュニケーションというのは、家族関係や会社の関係など、関係性本位でコミュニケーションが成り立つ。
途上国の若者の「友達」というのは、同じクラスで同じような行動をしてたら、だいたい友達になる。
また、一回や二回しか会ったことがないような親戚でも、何か問題が起こったら助けあうのが当然の文化だ。
(その国の文化にもよるかもしれないが)
そんな感じなので、途上国では、ちょっと人間的に変わった奴であっても、普通に社会生活営める程度なら許容される。
そういう意味では日本なんかより「優しい社会」かもしれない。
社会的価値が非常に重い環境であるといえるだろう。

一人ひとりの命の価値が低い(=将来死んでいる確率が相対的に高い)ので、
なるべく多くの人間と薄く広い関係を築いておくことが、双方にとってメリットになるのだ。

ところが、日本のような先進国はそんな風にコミュニケーションをとっていない。
一人ひとりの個性を大切にして、なるたけ気が合う人間と関係を持とうとする。
「友人」というのは、心が通じあってなければいけないし、下の名前やあだ名で呼び合うような関係でなければいけない。
途上国に比べると、個人的価値を重視した、関係づくりを行う。

明るい人間/暗い人間をわけて、コミュニケーションが下手な人間は巧妙に迫害される。
それは日本では(自殺しない限り)人が死なないからだ。
中学校でクラスの中心だった8人グループのメンツが、20歳になったときの同窓会で誰かが死んでる確率は、非常に低い。
だから気の合う人間と仲良くしておけば、それで事足りるのだ。

いわば先進国では、コミュニケーションを通じて、社会的な間引きが行われていて、
容姿が悪かったり、性格に難があったりする人間を迫害する仕組みが作られることになる。
(了。31:45)