四十三庵

蔀の雑記帳

理性と感性の相克について

会社に入ってから、周りに理系っぽいと言われる。
就職活動もコンサルとかの面接がすいすい進んだので、論理性があるように見られるようだ。
しかしながら、僕自身は、自分のことを論理的な人間というよりは、感覚的に生きている人間だと思っている。
外から見ると理性的に見られるが、内側では感覚で生きている人間。
なぜ僕がこのような人間になったのかを最近考えたことがあった。

  • 感覚で学校の勉強をこなしていた時期

つらつら考えてみると、昔は勉強を感覚でやっていた気がする。

僕は子供の頃、公文を習っていた。
国語と算数だけだったが、進度は学校よりも早かった。
おかげで、教科書や授業をすべて無視しても、テストの点数は普通にとれた。
じっくり問題の意味を考えるよりも、脊髄反射で答えを書き込んでいた。

中学くらいまではそれでなんとかなった。
ゆとり教育だったからなのか、僕の居た中学がレベル低かったからなのかはよくわからないが、さほど困ったことはなかった。
二次関数の解法とかも、「因数分解したら、なんか符号逆にして書いとけば答えになるだろ」とかいう感じでやっていた。
おかげさまで、がっつり考えさせるような問題は解けなかったが、
一般的な中学生が解けなければいけない基本問題はだいたい解けた。
国語と社会が得意だったので、数学理科英語で人並みの点数をキープしてれば、「まあまあ勉強ができる人」で居られた。

−転機
しかしながら、高校あたりになると、それだと通用しなくなってくる。
教職課程とった今だからわかるが、中学と高校あたりで子供の脳というのは「暗記型」から「論理的思考」に移ってくる。
子供の脳から大人の脳になっていくのだ。
小学二年生の頃に九九を丸暗記させるが、あれは理にかなっている。
もし大学二年生になってから九九を暗記させようとしても、厳しい作業になるだろう。

生徒の脳が「覚える」段階から「考える」段階へと移行するのにともなって、
学校のカリキュラムもだんだん論理重視に移っていく。

それで大学に受かるために、僕の方も論理的に物事を考えざるを得なくなった。

  • 大学の頃

大学では経済学をやった。
経済学にも色々問題点はあるけれども、感覚的か論理的かと言ったら論理的な内容だった。
高校以前の文章も人に読ませると論理的と形容されたが、大学以降は「理系っぽい」という評価を受けることになった。
昔よりも余計な言葉を書かなくなったので、特にそういう印象をあたえるだろう。

  • 二進数の世界

更に今、IT業界に入って、プログラミングを勉強している。
コンピューターの世界は、経済学以上の論理性を持っている。
というか、コンピューターというのは突き詰めると、「0」と「1」だけの世界で、その中間は存在しない。
二進数の「0」と「1」を電子回路の「電気が流れていない状態=0」と「電気が流れている状態=1」と結びつけ、
更には論理学の「偽=0」と「真=1」とを結びつけている。
たった2パターンだけの電子回路を複数組み合わせることで、たくさんのパターンが網羅できる。

これはグレーゾーンの存在は許されない、完全なるコチコチの論理の世界だ。

  • 悩み

最近になって、どんどん自分がロジックの世界に深入りしている気がする。
それで金がもらえてるから別にいいっちゃいいんだけども、問題は自分自身の考え方や文章の書き方にまで影響が出てしまうことだ。
論理的に正しいことは、往々にして面白くない。
僕が今書いてる文章は全然面白くないと思う。
ラノベ作家みたいな頭悪い文章もどうかと思うけれども、教科書みてーな文章書いて「正しい日本語を使ってる!」なんていうのもどうかと思う。

今の僕は二重人格化していて、
仕事では論理的な人間として振る舞って、プライベートでは感覚的な人間として過ごしている。
ただその感覚的な自分というのは、どんどん仕事をしている論理的な自分に擦り減らされていっているし、いつか消えてしまうのかもしれない。
音楽や小説に浸れる時間はどんどん減っている。

大学の頃はむしろ自由があったから、意図的に小説を避けて、実用書を読むようにしていた。
けれども今は週五で実用的なことばかりを考えさせられている。
そうなると、感覚的な自分がそのうち居なくなるような恐怖が湧いてきた。
こうやって、自分も電車の中に居た、何も考えてなさそうな汚いスーツ姿のサラリーマンの一人になるのか、という恐怖が。

  • 価値判断を放棄する危険について

僕は大学時代、人文系の人間が羨ましくもあり、蔑視もしていた。
人文系の学問は、ああでもないこうでもないと論争しても、結論らしい結論が出ないで終わる。
それは彼らが価値判断を行っていたからだ。
主観的な議論というのは、結局のところ議論する意味がない。
なぜならば、論理的に一意な答えを導くことが出来ないからだ。

たとえば、「殺人は悪か?」という命題があったとする。
この真偽は、数学の「偶数と偶数の和は必ず偶数か?」という命題とは違う。

(主張)
「殺人は悪である」
(理由)
「なぜならば、人を殺すことで誰かが悲しむからである」
(反論)
「ならば悲しむ人間がいない場合は殺人は肯定されるのか?」
……

などという感じで、延々と議論が尽きない。
繰り返すが、議論が尽きない原因は、論理的に一意な答えがないからだ。
つまり、証明ができないから、と言っても良い。

大学時代に、経済学部の「理論」をやっている教授の講義で、
政府が果たしてベンサム型の功利主義に従うべきか、ロールズ型のマクシミン戦略に従うべきかについて
「これに関しては価値判断であり、この講義では扱いません。
気になる人はベンサムとかロールズの著作を読むなりしてください」
と言っていたことがあった。
純粋な経済学徒だった僕は、浮世離れした哲学の正義論よりは、
社会的厚生関数の最大化の展開について更に学びたかったので、価値判断と経済学の講義を分断するのには賛成だった。
そしてその態度を、経済の勉強全般に関して適用した。

なぜそんな態度をとったかというと、僕自身が昔その手の「浮世離れした理屈」が好きだったからだ。
小学生の頃に論語老荘思想などの中華古代思想にハマって、その後孔子や莊子の教えを現代社会でやろうとすると、
かえって不幸になることがわかったので、僕は未だに中国の古代思想は有害だとすら思っている。

今振り返ってみると、むしろその手の価値判断は、放棄してはならなかったのだと思う。
人文科学、社会科学、自然科学、どれも大切だった。
「なにが正義なのか」といった問いは答えが出ない。
けれども、自分の中で「その価値判断は他人に任せる」として生きていくと、非常に脆い人間ができあがることがわかった。
何が正しいかの定義が自分で出来ていないので、価値観が揺らぐような事態に遭遇しても、場当たり的にしか対処できない。

  • 自分の価値基準

人と突き詰めた議論をするのがあまり好きではない。
その原因が、恐らくは論理的な主張を表面的にはしているように見えても、中身は感覚的というところに尽きると思う。
人にモノを教えていて、わかりやすいと言われることもある。
けれど、自分の中で、どうしても説明できないことがある。
そのせいでトラブルが起きたことが何度かある気がする。

結局は面白いものや美しいものが好きなんだと思う。
論理的に正しいものや、強いもの、権力を握っているもの、人気があるものというのが、あまり好きではないのだと思う。

  • まとめ

論理的だとか感覚的だとかいう話を延々したけれども、つまるところ自分が本当に論理的なのか、本当に感覚的なのかというと、
自分よりも徹底して論理的な人間(たとえば東大卒の人間とか)は存在するし、徹底して感覚的な人間(アーティストと呼ばれるような人々)も存在する。

いつか論理性と感覚の融合みたいなことが出来たらいいなあと思っている。
(了。1:49)