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四十三庵

蔀の雑記帳

自己正当感の消失と「上から目線」「承認欲求」というワードの関係性

論考
  • 導入

はてな界隈では、定期的に
「凡人として生きるしかないのだから、凡人としての運命を受け入れろ」
という趣旨の記事はバズる。
「きっと何者にもなれない」云々で検索すると、自意識が爆発した記事*1がたくさん出てくるので、
もしも読んだことがなければ探してみて欲しい。

(例)
「きっと何者にもなれない」あなたへ
就活で自殺するぐらいなら就活する前に自殺しろ

  • 「自分は何者になれる」と考えている若者

上記のような記事がバズる背景には、「自分は何者になれて当然」という認識がある。
僕自身も正社員になるまでに相当苦労したけども、
「何者になる」というのは、単なる正社員とは違う。
たとえば芸能人であったり、スポーツ選手であったり、
天才作家であったり、ベンチャー企業のカリスマ社長であったり、
所謂「有名人」になることが、「何者になる」ということなんだと思う。

平成の日本で生まれ育ってきた若者は、多かれ少なかれそういう思いを抱いているんだろう。
特に受験期の選別で勝ち抜いてきた高学歴エリートな方々は、
その頃のチヤホヤ感が抜けなくて、社会に出ても当然自分は何かになれると感じていたも無理はないかもしれない。

歴史的に考える。
明治期の日本では、大学入る奴はエリートで、
(というか帝国大学しかなかったし、大学進学率は人口の1%とかだったそうな)
「末は博士か大臣か」という言葉は彼らのためにあった。

戦後になると、大学進学率も一気に向上した。
当時の彼らの「何者かになる」というのは、「東京に行くこと」であったり、
「実家の農家を継がないでサラリーマンになること」であったりした。

経済成長を遂げると、そういう都市の大学で学んだホワイトカラー世代が親となった。
70年代以降の話だ。
その子供達は、親がサラリーマンなので、
サラリーマンがさほどいいものではないことを既に知っている。
テレビではアイドルやスポーツ選手が出ている。
それに自分の将来を投影する。

それで、日本人はこんな考え方をしていた。

最高:有名人になる
普通:サラリーマン
最低:会社が潰れるなど、サラリーマンにすらなれない

このような考え方は、バブル崩壊前までは日本の現実として正しいものだった。
ただ失われた20年に突入すると、この認識を保っている若者は厳しい現実と戦うことになり、
場合によっては導入部で引用したような自意識にあふれた記事を書き散らすことになる。

  • 自己正当感が失われやすい社会構造

最近になって、僕は「自己正当感」*2は、人が生きる上で大切なのだと考えるようになった。
いくら金を稼げる仕事でも、人のことを騙して儲けるような仕事だと、「自己正当感」は損なわれてしまう。
自分が間違った行為をしている、と自分自身が感じることは、
文明的な人間にとっては、とんでもないストレスであるらしい。

「サラリーマンになれて当たり前」と思っている若者が、
就活で意外とサラリーマンになるのが厳しくて、
自分がサラリーマンにすらなれないという現実と接した時、自己正当感は失われることになる。

  • 「上から目線」「承認欲求」「ドヤ顔」など

今の日本は、若者にとっては就職しづらいし、
おっさんたちも何やったら会社として正しい方向に行くのかよくわかっていない。
仕事だけではない。
友達づきあいや、恋愛や結婚、親の介護、近所づきあい、
子供の教育……色んなもので悩むことになる。
そんなわけで、多くの人間が「本当に自分は正しいのだろうか…」と悩みながら、日々を生きている。

世の中の風潮として、「上から目線」というのをやたらと忌避する印象がある。
コンビニやスーパーの店員だとか、鉄道会社の駅員だとかに、
やたらと偉そうにする奴がいる。
「承認欲求」や「ドヤ顔」と言った言葉が流行っているのも、
根っことしては、自己正当感の欠如がもたらすものではないかな、という風に思う。
「自分が正しくないかも…」という不安を抱いていると、
常に他人が下手に出ていないと耐え切れないのかもしれない。
(了)

*1:四十三庵でもその手の記事はある。(僕はあまり推したくないけど)「就活によせて」とか

*2:造語。適切な用語がなかったため