四十三庵

蔀の雑記帳

自分探しの帰結

自分探しというと大袈裟なのだけれど、2017年頃からずっと自分の内面を分析していた。
2014年にやっとの思いで就職して、そっからガムシャラに働いて、金には困らないようになった。
ただそのまま思考停止して働くことに強い抵抗があった。
その辺りのもやもやした気持ちを記事にしようと思う。

目次

心に関する記事が書けなかった理由

去年の年末年始の記事で、「心に関する記事」を書こうという宣言をした。

今までこの「四十三庵」というブログは、白黒はっきりつけられる話題を扱おうという傾向があった。
なるべく定量的なデータを見つつ、客観的な記述をして、何かの記事を書いた。
映画の感想とか音楽の感想とかはさすがにデータもクソもないので、感じたことを書いた記事もあったけど、メインではなかった。
高校生ぐらいから、「何かを議論するとき、多少国語力があれば、基本的には賛否どっちでも主張できるな」と気づいた。
そこで本当に正しい選択をするためには、統計データのようなエビデンスがないとダメだなと思ったのだった。
「ごちゃごちゃなんか書いてるけど、これは主張にすらなっていない」というのは世の中けっこうある。
ロジカルに議論する際は、感情というのは排除すべきだ。これは正しい。

ただ生きることにおいて、感情を排除することは不可能だ。
そこを勘違いしているつもりはなかったが、掘り下げは足らなかったと思う。
「ごちゃごちゃなんか書いてある」部分に、重要な点がある。
基本的には自分の心が抱えている問題について、つらつら書こうと思っている。
結構ブログのスタンスとしては転換点だと思う。
思い返してみると、もともと当初はそういうブログにするつもりではじめたんだった。
blog.stm43.com

ということを書いている。
書かれている内容自体は今も同じ気持ちだが、結果的にあまり書けていない。
最初は単に恥ずかしさの問題なのかなと考えていたが、自分の内面について書こうとしても書けないというのは、
もっと根深い原因があるんじゃないかと思った。

思っていることとやっていることが違う状態

SEという仕事で、会社からは一定の評価をもらえた。
給料も思っていたよりももらえた。
客観的に見れば何も問題がないような生活だったけれど、自分の中でずっと満たされないものがあった。

結局思っていることを全部書いてみたら、自分が今とっている行動とまるで矛盾したことを書くことになる。
そういう矛盾を抱えた文章を公開することに抵抗があったのだと思う。

元々は小説家とかミュージシャンとか、才能を認められて、「人と違う」ことを価値にして、金を稼ぐのが理想だった。
ただサラリーマンというのは、人と違うことは価値にならない。
実際僕が入社してからやったのは、部署にいる仕事ができる先輩の仕事っぷりを観察して、同じように行動することだった。
最初は上辺だけ同じように行動しているだけだったが、経験を積んでいくと、
知識が増えていって、やがて同じくらいのレベルの仕事がこなせるようになって、僕もそれなりに仕事ができる人間扱いされるようになった。

そういう状況で、個性とか感性とか独創性とか、元々自分が重視していた価値観が無自覚に置き去りになっていた。
僕がやっていたことが間違っているとは思っていない。
その状況では圧倒的に正しかった。
けれどこのまま同じことを続けていても、僕の人生には何も残らないような気がしていた。

会社の新人研修

ずっと幸せになりたいわけではなかった。
人生において何かを成し遂げたいとか、何かを残したいとか、そんな思いがあった。
就職活動で100社近い会社に落とされて、就職留年をして、内定を得た会社の新人研修では、
同期が結婚を何歳でしたいかという話をずっとしていて、ちょっとしたカルチャーショックだった。
まるでサラリーマンになるためにこの世の生まれてきたかのように、
いい大学を出て、いい会社に入って、結婚して、子供を残して、家を買って、定年退職して……みたいなことを真剣に考えている人間に囲まれたのは、人生ではじめてだった。
つまらない人間になりそうだな、と思った。

本当の自分

自分探しとか、本当の自分とか、その手のモラトリアム的な言説が昔から大嫌いだった。
自分探ししているとか言い出す人間に対して感じる嫌悪感は上手く説明できないけれど、何か嫌な感じがあった。
カイジの利根川の説教が当を得ていると思う。

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ギブアップ……?
真剣勝負にそんなものあるか……プロレスじゃあるまいし……バカどもがっ………!
わしのように生きるか死ぬかの修羅場を潜ってきた人間からすると
奴らの精神はまるで病人………並の治療では……
救われぬほど心性が病んでいる
その病気とはつまり…
どんな事態に至ろうと……とことん真剣になれぬ…という病だ
自分が特別な存在であることは人間なら当たり前だが…………
奴らはあまりにそれに溺れすぎ……
自分の空想と現実をごちゃまぜにする甘ったれだ……
いつだって……許されると思ってる……
借金を踏み倒そうと…………あるいは………
極論……人を殺した…としてもだ……
自分は悪くない 自分は許される なぜなら……
今起こった事態はあくまで「仮」で…
本当のオレのあずかり知らぬこと…そう考えるからだ…
嘘じゃない……その証拠に今日これほど明々白々赤裸々に…命懸けの勝負敗北は死だと伝えているのに……
連中はそれを自分の都合で勝手に勝手にねじ曲げる………
気が変わればリセットできるくらいの勝負に自分で作り変えてしまうんだ…つまり…
真剣ではないのだ…!
奴らにとってこの絶体絶命の橋ですら真剣になれぬ戯言……
言うなら架空の勝負…本当ではない……だから電流を切れだの……ギブアップだのと口走る…
都合が悪くなればおりるのだ…根っこが腐っているとしか言いようがない
通常奴らは…生涯その「仮」から目が覚めない……!
愚鈍に………寝たいだけ寝て……不機嫌に起き出し……
半ば眠っているような意識で日々を繰り返す
退屈を忌み嫌いながら その根本原因病理にはほおかむり
少し熱心になる時間といったら
ケチな博奕やどーでもいい女を追いかけまわす時ぐらい………
なぜそんなくそ面白くもない気分で……この人生の貴重な1日1日を塗り潰せるか……というと…
いつもどんな時も現実奴らにとって「仮」だからだ
つまり偽物……現実(こんなもの)が……
自分の本当であるはずがない………奴らはそう思いたいんだ……ゆえに……
30になろうと40になろうと奴らは言い続ける………
自分の人生の本番はまだ先なんだと……!
「本当のオレ」を使ってないから今はこの程度なのだと……
そう飽きずに言い続け…結局は…老い………
死ぬっ……!
その間際いやでも気付くだろう…今まで生きてきたすべてが
丸ごと「本物」だったことを…!
人は……仮になど生きていないし仮に死ぬこともできぬ 当然だ………
問題は……その当然に気が付いているかどうか…………
真に覚醒してるかどうかだっ……!
それがこの世で成功するか否かの最初の分かれ道 しかし……
奴らはそれを初っ端から勘違いしてるから能力以前にダメなのだ………

けれど働き始めてから、自分のアイデンティティがよくわからなくなった。

Twitterを消してから

twitterアカウントを消してみたのも、単に皆社会人になってツイート数が減って、つまらなくなったという理由もあったけれど、
ネタアカウントみたいな活動をしていても、後々振り返ってみるとフォロワー数以外何も残らないし、
自分が書きたいことを純粋に書けないアカウントになりつつあった。
結局何かを叩いたり、批判したりして得たフォロワーは、
自分が物陰に隠れて、自分の気に入らないものを叩いてくれるアカウントを求めているだけだった。
よく言えばヒーローを求めているとも言えるが、悪く言えば鉄砲玉を求めているだけだ。

twitterだけでなく、LINE以外のSNSをすべて消した。
匿名アカウントでフォロワーが3000人以上いる、ネット上のちょっとした有名人みたいな存在から、
現実のうだつの上がらない、友達の少ない、声の小さい会社員の自分として、世の中と真剣に向き合ってみることにした。
就活でよく自分の軸がどうとか言われたが、そういうものを見つけようとした。
自分探しと言っていい行為だと思う。
これまで忌避してきたけれど、そうしなければ、永遠に自分は何にも満足できないだろうということがわかっていた。
あれほど苦しんで、やっとの思いで就職した会社でも、僕は満足できずにいた。
何がどうなれば満足できるのかもわからなかった。

自分がどうしようもなく無力で、空っぽな人間であるような感覚があった。
このまま結婚して家庭をつくること以外望まれていない状態だったが、そのことに強烈な抵抗があった。

何日か前に、芥川龍之介の小説を読んでいたら、僕の抱いていた気持ちを書いている文章があったので、引用する。

彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた 。
が 、不相変養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた 。
それは彼の生活に明暗の両面を造り出した 。彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見 、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした 。
が 、意識の外の彼自身は 、 ― ―言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた 。
——芥川龍之介「或る阿呆の一生」三十五 道化人形

いつ死んでもいいが、何か大きなことのために人生を費やしたい、という気持ちがあった。
ただせっかく命をかけるならば、それ相応のこと……と逡巡しているうちに、年齢だけ重ねていった。
きっとその感覚すら特別なものではなくて、平凡な人間のある一つの類型に過ぎないだろう。
野球、文学、漫画、音楽、野球、弓道、経済学、投資、英語、プログラミング、そういう色々なものを、
興味の赴くがままに習得していった結果、器用貧乏で終わりそうな予感だけが漂っていた。

社会人になってから、父親と酒飲むとよくこんなことを言っていた。
「学校の勉強もできたし、スポーツもそれなりだったし、色んなことで、人並みにできるようになるスピードは早かった。
けどなんか……これ、っていうのがなかったんだよな。なんだか、色んなことに力を分散しちゃって、結局みんな大したことはできなかったなあ……」
本当に無能な人間だとか、極端に能力に偏りがある人間だったら、こういう悩みにはならないのだろう。
父親はそれなりに能力がある人間だったんだろうけども、何かに突出しているわけではなかった。
平凡な会社員だったが、元々は「社長になりたかった」と思っていたらしい。
尤も、どんなビジネスをやりたいとか、どういう会社をつくりたいとか、そういうものが見つけられないまま、
思いは思いのまま、現実の生活の中で色褪せていって、働き始めて、結婚して、子供ができて、家を買った。
それが本人にとって、よかったのか悪かったのかは、誰にもわからない。

状況によって自分は変わる

本当の自分で常にいようと試みた時期があった。
自分のキャラクターを常に一定にする、とか。
そういう風に行動する奴って、めちゃくちゃ迷惑な奴だなと思った。
たとえば絶対に敬語を使わないとか、スーツは自分らしくないから葬式でもTシャツで行くとか、そういうことになる。
実際のところ、そんなものは自分らしさとは何の関係もないような気がするけれど、
その線引きが難しくて、親が死んだ葬式にスーツ着ないで行くことが自分らしさを殺すことと思う人は相当だが、
会社に行くためにスーツ着て満員電車乗ることは、かなり自分らしさを殺すことになる。
同じスーツを着るという行為でも、アイデンティティに与える影響は違う。
(ちなみに僕は会社に行くときにスーツを着る行為に抵抗があった)

自分の芯がなくて不安になった時期があったが、それは結局僕が上手く社会に適応している裏返しでもあった。
TPOにあった行動をとるとか、周りの空気を読むとか、そういう風に振る舞っていると、自分を殺すことになり、
個性を重視するのであれば悪いことだが、けして人として悪いかというとそんなことはない。
世の中がそんな人間ばっかりになったら、社会が成り立たない。

だから、会社にいる自分と家にいる自分、友達といる自分、初対面の人間といる自分がある程度違うことは許容することにした。
ただ状況に適応するためにキャラを変えることと、やりたくない役割を演じることは明確に区別しないといけないと思った。
元々その辺の境界線が曖昧だったので、社会人になってからアイデンティティ喪失みたいな気持ちを抱くことになった。
上手いこと会社員やっている連中は、そこら辺を上手く切り分けられているか、もしかしたら考えてすらいないのかもしれない。
考えてすらいない場合、とりかえしのつかない年齢になって、
「俺が本当に生きたかったのはこんな人生じゃなかった」みたいな絶望感を抱いて、駅で突然他人を殴ったりするのだろう。
まあでも、何も考えてなくても、なんとなく周囲が幸福感を与え続けてくれてさえいれば、普通の人間はそのまま人生に満足するので、その辺りは運だろう。

他の人間と違うところ

「変わっている」と言われることもあるし、平凡な人間と言われることもあった。
たとえばはてなブログを書きためた人間として見れば、それはそれなりに変わっている風に見えるし、
普通に会社で仕事している姿を見れば、平凡な人間に見えるだろう。
平野啓一郎が「分人化」という考えを提唱して、結果あまり流行らなかったが、考え方自体は現代的だと思う。

匿名アカウントを持っていると、特に実際の自分とは違うキャラを演じることになるので、特に人格の分裂を感じやすい。
別にそういう風な生き方もいいけど、僕はなんかエネルギーをムダ使いしているなと思ってしまった。
多重人格みたいに、仕事している自分やプライベートな自分、趣味にうちこむ自分、みたいに分裂させてしまってもいいが、
僕みたいな能力値の人間がそれをやると、色々な分野で中途半端な能力を発揮する人間になってしまう。

やりたいこととできることをきちんと整理して、こうありたいと思う自分像をきちんと確立することが重要だと思った。
それはなんか、仕事におけるキャリアプランにも絡んでくる。

やりたいことを整理したとき、自分の中で小説とITを二本柱にしようと考えた。

勝利条件が明確でない戦いは辛い

僕が抱えていた上手く言葉にできなかった辛さは、結局勝利条件が曖昧だったから起こったのだと今では思う。 視野を広く持とうとして、色んな分野に手を出して、色んな本を読み、 言うなればすべての変数を計算して、一番いい道に進もうとしていた。 視野を広く持とうとしたこと自体は正しかったけれど、人生の選択をそういう風に決めると、相互に矛盾する価値基軸が結構あるので、 (たとえば親が喜ぶ就職先と、友達から一目置かれる仕事と、自分が本当にやりたい仕事とか) ベストの選択肢を選ぶというよりかは、中途半端になりがちな気がする。 孔子の思想なら、中庸が最も尊いというのがあるので、穏やかな人生を歩むためには、それでよいと思うが、 それでよいと思うためにも、自分の価値基軸は穏やかで人並みの人生を歩めていればOK と割り切る必要がある。

世の中の人間が全員モットーをきちんと確立して、日々それに準じた行動がとれているかというとそんなこともないだろう。 僕は長らくそういうものを持たないようにしてきた。 もっと自由でありたかったし、もし軸を持つのであれば、それはもっと強力な、永久不変のものでなければないといけないと思っていた。 言うなれば宗教に近いレベルで、何かしらの信念を持とうとしていた。 しかしそのレベルで強い信念を持つのは、現実的じゃないことに気づいた。 Bohemian Rhapsodyに感動すれば、Queenを急に聞き出すように、人間はなにかに影響されたり、その影響がいつか冷めたりするものだ。 死ぬまで冷めない影響が、信念と呼べるものになっていくのを期待していたが、 30年近く生きてきて思ったが、結局そういうのって上書きされていくものらしい。 変わることを許容した上で、今自分が最も価値を置いていることはなにかと考えた方がいい。 数年後全然別のことを言い出して、他人から「いや数年前こんなこと言ってましたやん」みたいな指摘を受けても、 「数年前はこういう理由でこう考えていたが、それからこう考えるようになったので、今はこう考えている」と説明できれば、変わることはなんら問題がないし、正しい。 過去の自分と矛盾しないこと、一貫性を保っていることは、年をとるにつれて、あまり意味がないと思うようになった。 むしろ間違っていると気づいたら、考えはアップデートしていかなければいけない。

ずっと勝利条件のない戦いをしていたのは、仕事に対して中途半端なやる気しか持っていなかったからだった。 大手企業に入れれば勝ちなのか? とか、やりたい仕事できれば価値なのか? とか、その辺が曖昧だった。 2018年は真剣に仕事をしたが、その中で、社会人になってからは、自分の仕事で残した成果が、即ち人生で残したものになるなと思った。 クソみたいな仕事をしていれば、そのクソが自分の人生の成果物として残っていく。 いくら「俺はこんな仕事好きじゃない。金をもらうために仕方なくやっているんだ」と心の中で思っていても、一日の大半の時間を仕事に使っている以上、仕事が人生のメインになることは避けられない。 勝利条件という話でいうと、仕事で何を達成できれば、自分にとって勝ちなのかを考えるようになった。 会社が求めている条件は当然超えなければいけない。納期とか、予算とか。 「会社の要求を全力で満たすことがサラリーマンの使命だ」というのも一つの考えで、それでも構わない。 僕みたいなタイプの人間は、あんまりそういう考えができなかった。 もっと高次の意味を考えてしまう。 たとえば自分の仕事を通じて、社会貢献ができているのが重要な人もいるだろうし、高い給料を得ることかもしれないし、 出世レースに勝つことかもしれないし、楽しい仲間に囲まれていることが大事かもしれない。それは人による。 僕の場合どうなのか、と考えたとき、「創造力を活かして、いいものを世の中に残せる」というのが大事だと気づいた。 それが僕にとっての勝利条件なんだと思う。 結果が出せる、出せないというのはもちろんある。 いいものを作ろうと死ぬほど働いても、イマイチなアウトプットで終わるかもしれない。 ただそれでも、その過程で吸収したノウハウで、次はもっといいものが創れる。 そういう方向に向かっていければ、多分人生がだんだん意味を持っていくと思う。

人間には、立派になりたい気持ちとサボりたい気持ち、両方あるのだと思う。 僕は基本的に自分のことを怠惰な人間だと思っているが、 そういう人種でも立派になりたい気持ちというのは持っている。

今後は小説とITを中心にする

ちゃんと書いたことはなかったけれど、2009年くらいから、ずっと1年1作品くらい小説を書いて、新人賞に送っていた。
それはやはり特別なことだった。
ただ小説というのは、自分の才能の問題もあるし、今の出版不況の世の中で、需要が高いものではない。
賞をとるのは目標にしていきたいが、とれる気があまりしない。
ネット上に公開して、注目を集めるとか、そういう道も探っていきたい。

ITは世の中から需要がある。
IT業界に入ったのは、正直言ってたまたまだったが、やってみたら自分には向いていた。
技術を極めていけば、生活には困らない。
このブログで技術情報を出してもいいが、そこは分けたいと考えている。
非エンジニアにもわかるレベルの記事は書くかもしれない。

twitterも復活させた。
「四十三庵」は純粋に自分が文章を書く場所として、これから機能させていく。
(了)