四十三庵

蔀の雑記帳

勝負の結果が出た後で負けた中年男性を救うものはあるか(ウエルベック「セロトニン」)

長いこと書評なんて書いてなかったけど、面白い小説を読んだので、書く。
ストーリーとか、作者の来歴とかは、何か他をあたってもらうとして、読んで考えたことを中心に書こうと思う。

勝負の結果が出る年齢

人生には答え合わせがある。
「カーネル・サンダースは65歳でKFCを起業した」など、何歳からでも人間は何かをすることができる。
それは気休めではなく、事実だと思う。
ただし何歳でも可能性がある、というのは、諦めずに努力し続けている人間の話でもある。

Wikipediaを簡単に見た限り、カーネル・サンダースは40種の職業を転々とした後で、
ガソリンスタンドの経営をはじめ、1930年にはそのスタンドに併設する形で「サンダース・カフェ」を開いている。
そのカフェで売っていたフライドチキンが美味しいと評判になったのが、KFCの原点になっている。
1930年時点で、カーネル・サンダースは40歳のはずだ。
何が言いたいかというと、「65歳で成功した」というより、40歳で既に種から芽が出ていた感じがする。

学生時代に会った同級生で、「こいつはすごい。将来どうなるんだろう」と思った友達、
ものすごい美人で、好きだった女の子、
運命を感じたけれど、結局別れてしまった恋人、
10代の頃は間違えなく無限の未来が広がっていた。
自分の感じた感覚が結果的に正しかったのかどうか、その答え合わせは、正確に言えば全員が死ぬまでわからないけれど、
本の8割を読み終えてしまった後みたいに、終わりがだいたい読めてしまう感覚になる時期はそのうち来ることになる。

「セロトニン」の主人公は46歳だった。

敗北から始まる

主人公(著者も)はフランス人だが、物語のはじめはスペインから始まる。
この小説は実に多国籍の人物が出てくる。
主人公も愛車のメルセデスG350TDに乗って、信じられないくらい移動を繰り返す。
主人公は最初うんざりするような日本人女性ユズと交際? している。

愛する者が同じ言語を話すのは都合が悪く、言葉によって交流し真の相互理解ができるのは良くない、言葉は愛を生み出すためではなく人々を分裂させ憎悪を搔き立てるためにあり、言葉は交わせば交わすほど人を分かつが、ほとんど言語でないようなたわいのない愛の言葉、飼い犬に話しかけるように相手の男や女に話すことで、無条件に続く愛が作り上げられる。

彼はそれなりの女性関係、それなりの貯金を持っている。
農業食糧省に勤めているエリート。
抗鬱剤キャプトリクスを服用する必要がある程度のむなしさを抱えている以外は、基本的には豊かな生活を送れている。
キャプトリクスという薬は現実には存在しないらしいので、おそらく創作だろうと思われる。
この薬の副作用として、性欲の衰え・不能がある、という設定になっている。

主人公は性欲を異常に高く評価していて、こういうセリフが出てくる。

マルセル・プルーストは「見出された時」において、世俗的な関係のみならず友情も本質的なものは何ももたらさず、結局のところ単なる時間の無駄、世間が思うのとは反対に、自分に必要なのは世間が思うのとは反対に知的な会話ではなく、「花咲く乙女たちとの軽やかな愛」なのだとびっくりするほど率直に結論づけている。
ぼくは、論証のこの時点で、「花咲く乙女たち」を「濡れた若いヴァギナ」と言い換えることを強く主張したい。

しかしその異常性欲も、薬のために封じられてしまう。

彼も若い頃は、フランスの農業政策に熱い思いを持っていた。
しかし実際のところ、フランスの農業は疲弊する一方だった。
彼にできることは限られていて、やがて彼は自分の仕事に諦めを抱くようになった。
物語はそこからはじまる。

フランスにおけるアメリカ型自由主義に対する敗北感

現代の人間が成功できるのは、仕事か恋愛かのどちらかだ。
愛と金、と言い換えることも可能だ。
仕事上の成功の道が途絶えた主人公が、次に求めたのは愛情だった。
彼は過去の女性関係にすがって、カミーユという女性に精神的に執着するようになる。
ただこの小説は、そんな主人公の希望の綱を1つずつ断ち切っていく。

「農業従事者の数が三分の一になったところで」とぼくは続けながら、自分が職業人生において完全に失敗した、その核心をついていると感じていた、新しいフレーズを口に出すごとに自分で自分をズタボロにしている、同時に、では私生活で何か成し遂げられたのか、女性を幸せにしたとか、せめて飼い犬を幸せにしたとか、それさえもないのだ。

愛を獲得することに失敗したのは、まあいいだろう。
職業において彼を敗北させたのは、彼自身の努力や能力がどうこうというよりは、もっと巨大なうねりを感じさせる。
それはつまり、ヨーロッパの伝統主義が、アメリカの自由主義に、経済的に完全に敗北した、ということだった。
マクロの敗北が、主人公やかつての友人エムリックの敗北感につながっていく。

僕が面白いな、と思ったのは、これが日本の状況とかなり似ていることだった。
日本の場合やや状況が違うが、基本的には似通っていて、
アメリカという国に経済成長で完全敗北し、周辺の新興国の急激な成長で市場を脅かされていて、
先進国の優秀な高学歴層がいまや自分の存在価値を認められないでいる。
下記は主人公の親友、エムリックのセリフだ。

「傑作なのは、父のように人生で有益なことをほとんど何もしなかった人間が──結婚式や葬式に参列し、猟犬を使ってハンティングを時々、ジョッキークラブでたまに一杯やり、多分愛人も何人かいたと思うがはめは外さなかったと思う──アルクールの資産に手をつけずに残したってことなんだ。
ぼくは事業を起こし、へたばるほど仕事をして、夜は会計に時間を取られ──それで結果としては、一家の財産を食いつぶすことになってるんだから……」

主人公は長らくカルフールで買い物をしていたが、放浪生活の果てに地方の振興スーパーに入る。
そこで多彩で魅力的な商品に圧倒される。
これも日本で言うと、イオンモール(ジャスコ)と似ている。
また、フランスのテレビ番組を見ていると、エロが減って、グルメ番組が増えたのをなんとなく感じた。

ぼくは食べ物を注文し、ジャガイモのオムレツにレフを三杯飲んだところでようやく気を取り直してきた、そう、西洋は口唇期に後退したのだ、そしてどうしてそうなったかぼくには理解できた

何かを残せなかった中年男性に救済はあるのか

この小説は、そんな敗北した主人公が、救いを求めるようにして、
仕事と同棲相手から「蒸発」して、ホテル暮らしをして、
昔の彼女を思い出して会ったり、旧友のところを訪ねたりする。
精神科医からはたびたび買春を薦められる。
しかし性による救済は、キャプトリクスによって封じられている。
酒、薬、タバコ、食事が基本的な主人公の快楽物質だった。
物語の中盤で、射撃という楽しみを得るが、それも酒よりは健康的というだけで、根本的な解決ではない。

最後に彼はタワーマンションの1室に、自分の人生の思い出の写真を並べる。
自分のためだけに、自室にFacebookのウォールをつくった。
そして引っ越してから1度もブラインドを開けていない窓から、飛び降りたときの秒数を計算する。

何年も理科系を専攻していた甲斐があった。高さ hを時間 tで自由落下した時の公式は正確には h = 1/ 2 gt 2で、 gは重力の恒常性を示す、そうすると、高さ hに対して、落下時間は√2h/gになる。
ぼくの建物の高さ(約百メートルだった)を考慮に入れ、この高さからの落下において空気の抵抗は無視していいと考えると、
落下時間は四秒半、もしどうしても空気抵抗を計算に入れたいというなら最長でも五秒になる。
くどくどと思い悩むことはなかったのだ。
カルヴァドスを何杯か呷りさえすれば何かはっきりと考える時間があるかさえ確かではない。
この単純な数値を人が知っていたなら、もっと多くの自殺者が出ただろう。
四秒半だ。ぼくは時速一五九キロで地面に叩きつけられる、それ自体はあまり心地よい想像ではなかったが、まあいい、恐れていたのは衝撃ではなく、滞空時間のことで、物理の法則が、ぼくの飛行時間は確実に短いと定めたのだ。

実際のところ、主人公は飛行時間を計算しただけで、この小説は終わる。
終わり方としては、あまりきれいだとは思わないけれど、しかしこの物語展開を考えると、こんな終わり方しかないような気もする。

ぼくは一人の女性を幸せにできたかもしれない。または二人を。それが誰かはすでに話した。
最初から何もかもがあまりにも明白だった。でもぼくたちはそのことを考慮に入れなかったのだ。
個人の自由という幻想に身を任せてしまったのだろうか、開かれた生、無限の可能性に? 
それもありうる、そういった考えは時代の精神だったからだ。
ぼくたちはそうはっきりと言葉に出しては言わなかったと思う、関心がなかったのだ。
ただそれに従い、そういった考えに身を滅ぼされるに任せ、そのあと、長い間、それに苦しむことになったのだ。
(※太字は僕が入れた強調)

個人主義にとらわれたフランス人の敗北を書いた、というのがこの小説の説明文になるのだろう。
主人公の自殺を限りなく示唆しながらも、そのシーンがないのは、
それを書くと作者が自殺教唆のようになるから嫌だった、と考えることもできる。
肯定的に考えるなら、自殺も救済ではない、ということなのだろう。
「最後の救済は自殺だけでした」という展開もありうるだろうが、この小説の意図としては、
そもそも救済が何1つなかったことを示したいのであって、最後が自殺であってもそれもまた違うんだと思う。

個人主義の限界を書いてはいるものの、それに代わるものが何かを小説中で示唆していないのは、単に作者もその答えを持っていないからに他ならない。
愛、宗教、伝統回帰、などなど、選択肢はいくつかあるように思えるが、明確な何かはない。
作者も持っていないし、読者も持っていない。

そう考えていくと、主人公が失敗したのは、仕事の成功や愛情の獲得というよりかは、
もっと本質的には自分より大切な何かを見つけることに失敗したのかもしれない。
(了)