四十三庵

蔀の雑記帳

三島由紀夫の作家としての成長を追いかけてみた〜「花ざかりの森」から「豊饒の海」まで〜

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個人的に尊敬する人間が三人いて、三島由紀夫とKurt CobainとSteve Jobsなんだけども、アメリカ人二人は伝記読んで、
それなりに生涯を追ったんだけど、三島に関してはそこまで細かく追っていなくて、
小説を何個か読んで、その人となりはなんとなく把握していたような気持ちになっていた。
作家の生涯もざっくりと、wikipediaレベルでは知っていた。

ただなんかもうちょっと深く知った方がいいんじゃないか、と思って、この二週間ぐらい何冊か本を買って研究した。
文学研究や評論というのは専門外なので、あくまで自己流の解釈になります。

目次

特殊な幼少期

三島が四ツ谷に生まれたことは知っていたが、家庭環境は特殊だった。
四ツ谷はそもそも「四谷怪談」の舞台になっていることからもわかるように、あまりいい土地柄ではなかった。
祖父の代からの官僚家系で、家柄は良かったが、祖父の借金のせいで没落気味だった。
土地柄の悪い四ツ谷の、近隣では一番大きな三階建の借家で、女中が六人いたという、裕福なんだか貧乏なんだかわからない家だった。

三島由紀夫のプロフィールは、東大卒元官僚で父親も官僚のエリートで間違えないけれど、
もうちょっと実像を細かく見ていくと、なかなかに屈折した家庭だったというのを感じる。

三島は平岡家の長男だった。
祖母から溺愛されて育つ。
溺愛というか、軽い軟禁状態ったようだ。

祖母の平岡夏子(なつ)は、泉鏡花を愛する文学趣味があって、歌舞伎や能を好んだ。
坐骨神経症を患っていて、時々家で癇癪を起こした。

狷介不屈な、或る狂ほしい詩的な魂(「仮面の告白」) 十三歳の私には六十歳の深情の恋人がいた(「仮面の告白」)

と三島は後年祖母を表現する。
十四歳で彼女が他界するまで、三島は両親からも隔てられて育った。

師匠川端康成の幼少期

戦後、三島由紀夫を発掘した作家は川端康成で、二人の間には緩い師弟関係があった。
三島と川端は全然性格も作風も違うように見えるので、長年僕の中で違和感があった。
三島は世に出るために全然尊敬もしていない川端を利用したのではないか、と疑っていたけれど、色々追ってみるとそういうことでもないらしい。

川端康成もまた、幼少期がかなり変わっている。
まず両親が早死して、親族の間を転々としたが、その親族もまた死に、川端康成本人も病弱だった。
十四歳(中学三年)で祖父が死んだけれど、その祖父は死ぬまでの数年間、
白内障で目が見えず、自分の下の世話もできない、現代で言えば要介護状態に陥っていた。
そういう状態の祖父と二人で暮らしている中学生、というのはなかなかいないだろう。(「十六歳の日記」)

「花ざかりの森」から見る夏子

母の倭文重(しずえ)は姑に頭が上がらなかったし、父親梓も本当は息子を男らしく育てたいと思いながら、すぐにヒステリーを起こす母親に強く出ることもできなかった。
夏子は病気と不機嫌によって家を支配していた。
その陰鬱な家の雰囲気は、実は「花ざかりの森」で描写されている。

祖母は神経症をやみ、痙攣をしじゆうおこした。ものに憑かれたやうに、そのさけがたい痙攣がはじまるのである。かの女のしづんだうめきがきこえだすと、病室の小さな調度、煙草盆や薬だんすや香爐や、さうしたもののうへを、見えない波動のやうにその痙攣が漲つてゆく。(中略)それは「病気」がわがものがほに家ぢゆうにはびこることである。(「花ざかりの森」)

「花ざかりの森」

祖母の影響と、学習院という学校の雰囲気も、三島を古典趣味に導いていった。
三島は日本浪曼派の中で、天才文学少年という扱いを受けて、戦時中に「花ざかりの森」を発表、一週間で四千部を売り切る。

この本に関しては戦時中という特殊状況で、「夭逝した天才」になりたかった三島の遺書のようなものだと認識していた。

本小説は「書いたのが十六歳」という背景を知っているお、確かにすごいと思う。
けれど全体的にストーリーがなく、アンニュイな雰囲気で包まれている。

当時戦時中で「文壇」というものがそもそも存在しなかったので、正式な評価がイマイチわからないのだけれど、
当時の芥川比呂志や吉本隆明、秋山駿が読んで、衝撃を受けたという証言もあるので、
文学青年たちの間では一定の評価を得ていたようだ。

不遇時代

ただこの中途半端なデビューが、戦後の三島を不遇にした。
戦争の終結は、日本という国も日本人の価値観も根本的に変えてしまった。
その状況で求められる文学として、三島が書いていたものは明らかに不適合だった。

戦時中の小さなグループ内での評判などはうたかたと消え、戦争末期に、われこそ時代を象徴する者と信じていた夢も消えて、二十歳で早くも、時代おくれになってしまった自分を発見した。(「私の遍歴時代」)

戦争終結直前の1945年5月、神奈川県の海軍高座工廠にいた三島は、

机辺に、和泉式部日記、上田秋成全集、古事記、日本歌謡集、室町時代小説集、鏡花を五六冊並べていたのはよいとして、イエーツの一幕物を謡曲の候文で訳している、などと先生に報告している。(「私の遍歴時代」)

という古典趣味の塊みたいなことをしていた。

戦後筑摩書房に持ちこんだ「花ざかりの森」「中世」「岬にての物語」は、当時顧問だった中村光夫からマイナス120点をつけられた。

作家だけで食っていく自信がなかったので、官僚をやりながら小説を書く二重生活のイメージで、東大法学部に進む。
川端康成から「煙草」を評価されて、なんとか1946年の「人間」6月号に載せてもらったけれど、評判はほとんどなかった。

華々しいデビューとはいかなかったけれど、二重生活を続けながら、小説を発表し続ける。
1948年夏に大蔵省を退職して、1949年(24歳)に「仮面の告白」を書きあげる。

この期間の三島というのは、元々持っていた度がすぎた古典趣味、詩的世界観を修正して、
世の中に適応しようとしていた時期であるように思う。

「仮面の告白」と「花ざかりの森」を比べると、もう全然別の作家が書いたものとしか思われないだろう。

何となく自分が甘えてきた感覚的才能にも愛想を尽かし、感覚からは絶対的に訣別しようと決心した。(「私の遍歴時代」)

この時期から三島の中には森鴎外を参考にした、理知的な文体を志向し始める。
若き天才作家から、職業的作家として、確かな進化を遂げた時期なのだろう。
「仮面の告白」以降も実験的な作品(例えば「青の時代」とか「美しい星」とか「憂国」とか)は書いているが、総じてきちんと小説として成立しているし、
何より一般的に「三島由紀夫の作品」としてイメージされるようなものを残した。

自己変革

ここまで見てきたように、三島由紀夫の元々の素質は天才型で、才能のまま個性的な小説を書く、
しかもその個性というのはかなり古典趣味から来た、やまとことば調のものだった。
言うなればバリバリの感覚タイプだった。

けれど後天的な努力によって、規則正しさや几帳面さなど、’理性で小説を書くことを自分に課した。
「私の遍歴時代」では、トーマス・マンの言葉を引用して、

小説家は銀行家のような風体をしていなければならぬ

という銀行員のような小説家を、目指すようになった。

更なる感性との決別

1951年、26歳のとき、作家的な名声はほぼ十分に高まったところで、三島は世界旅行に出る。
この旅行中、三島は自分に足りないものを考え、自分のありあまった感受性を「靴のように」すり減らそうと考える。
そして自分に足りない肉体的存在感を得るために、太陽を求めた。
デッキの上での日光浴を通じて、人生ではじめて彼は「日光と握手をした」。

帰国後、有名な肉体改造をはじめて、「潮騒」や「金閣寺」を書くことになる。
本人のエッセイによると、17歳から26歳(1951)が彼の遍歴時代だ。
世界旅行から帰ってきた時点でもう青春は終わりで、ある種作家としての「型」が確立した、と考えて良いだろう。

「鏡子の家」の失敗

「金閣寺」で文壇の名声はほぼ確立した。
1958年には結婚もして、公私ともに充実していた。
その後、足掛け2年かけて執筆した、1959年9月「鏡子の家」が刊行される。
売上は15万部で、けして悪くなかったが、文壇の評判がとにかく悪かった。

これは三島にとって計算外だったらしい。
職業作家として完成して以降、はじめて味わった挫折だった。

「鏡子の家」は戦後という時代を書こうとした。
鏡子という人妻と、四人のそれぞれ個性的な青年たちの、それぞれの破滅を描くことで、
時代の気分を書きながらも、四人の青年に仮託した、三島の人格の一要素が掘り下げられているため、私小説的な要素も持っている。

僕が昔読んだときはそれなりに面白く読んだんだけど、「人と思想」を読んだら、
もう冒頭からめちゃくちゃに批判されていて、ちょっと笑ってしまった。
言われてみると勝鬨橋に主役が集まって、それぞれ独白形式で自分の小説的役割を話すところはめちゃくちゃ陳腐だ。

この小説の失敗を「しかしその時の文壇の冷たさってなかったですよ」「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」と1967年の大島渚との対談で自ら語っている。

「豊饒の海」

渾身の長編「鏡子の家」がドスべりした三島由紀夫は、その後しばらく売上が低迷する。
また、右翼思想に傾倒することになるのもこれ以降だ。
剣道、自衛隊の体験入隊、楯の会などのエピソードは有名なので、特には触れないが、
そのきっかけになったのが、「鏡子の家」だったのだろう。

文壇に裏切られた三島だったが、もはや彼は文学だけしか自己表現の手段がなかった十代の頃とは違った。
映画、音楽などにも手を出す。
作家というよりはもっとセンセーショナルで、タレント的な存在になりつつあった。

そんな状況で、最後に書いた大長編の「豊饒の海」は、「鏡子の家」で傷ついた文学的なプライドを回復させた、渾身の長編だった。
それまで取り組んできた自己変革に次ぐ自己変革を終えて、
自分が元々持っていた古典主義とロマン主義に回帰しながらも、
技術的には「仮面の告白」や「金閣寺」で見せたような、森鴎外風の理知的な文章で書かれている。

1970年に三島事件を起こして、自決する最期を選択するけれど、「小説家三島由紀夫」としては、最後の最後で不朽の名作を遺すことになった。

三島の描く海の人工性

以上で作家の成長の軌跡はだいたい書いたかなと思う。

三島の小説の中で、風景描写がかなり独特だなと思いながら、その独特さを上手く言語化できていなかったんだけど、
この二週間ぐらいの研究で上手く説明できるようになったと思う。
三島の小説には、よくモチーフとして海が出てくる。
彼の描く海は、要するに人工的なのだと思う。
自然のありのままの美しさというよりかは、ゴルフ場の中の自然の美しさというか、造られた美しさ。

その人工性がどこから来るのかというと、やはり四ツ谷で祖母に幽閉されていた幼少期から来るのだろう。
東京生まれ東京育ちで、本当の海や森に触れていない少年が、想像力で思い描いた、美しい自然。
たくさん花の名前が出てくるけれど、なんとなくその花の姿が文から浮かび上がってこないのも、たぶんその辺なのかなと思う。

この人工性は、彼の欠点でもあり魅力でもあると思う。
それをどう評価するのは、時代の要請次第だろう。

参考

本記事の記述は下記二冊を参考にしている。

人と思想 197 三島由紀夫

人と思想 197 三島由紀夫

  • 作者:熊野純彦
  • 発売日: 2020/02/19
  • メディア: 単行本